「政治改革の嵐、若手議員の会」

さて、再び昭和63年のリクルート事件に話題を戻そう。秋から冬にかけて事件は政界、官界、財界を巻き込む大きなスキャンダルへと発展していた。

ユートピア政治研究会もメンバーが38人と広がり政治改革の勉強会を続けていたが、党にも政治改革の気運が高まり政治改革本部が設置されていた。

本部長は後藤田正晴先生、事務局に武村正義先生が就任した。

武村氏が党の正式機関の役職についたこともあり、ユートピア政治研究会はある意味で、役割を終えた。

しかし党内で政治改革を強く推進するのに運動体は必要とのことで、当選1~2回議員で新たな同志が結集し「政治改革を堆進する若手議員の会」を作った。

会長はどちらかと言うと目立つのが好きな石破茂氏が就任した。

赤坂のビルに拠点を確保し、私達はこの勉強会で議論を重ね組織的に政治改革本部の会議で発言し、党内の議論をリードした。

当時の一期生の論客は簗瀬進(後の民主党参議院議員)・岩屋毅(現自民党衆議院議員)、いずれも後にさきがけの設立に参加することとなった。

政治改革の議論は、金のかからない政治を実現するために

①寄付行為の禁止(公職選挙法の改正)

②公費の導入(政党助成金)

③選挙制度の改正(小選挙区制の導入)

の3点に集約された。

①と②の党内合意は得易かったが、③選挙制度の改正については大議論となった。

選挙制度に完璧なものはない。中選挙区制であろうが小選挙区制であろうが、長所もあれば欠点もある。

それに議員が選挙制度を決めるのは、力士が土俵の大きさを決めるみたいな話でおかしいと私は思っている。

政治改革の議論の発端は政治と金にあった。中選挙区はサービス合戦になり金がかかる。加えて政党助成金を導入するには、同一政党の候補者同志が戦う中選挙区は適当でない。

サービス合戦でなく政策本位の選挙だと小選挙区か比例代表が良い。

但し小選挙区制になると地域の代表は一人しかいないことになるので、より利益誘導が強くなるので地方分権を進める必要がある。

①小選挙区、②政党助成金、③地方分権は一体的に実現しなければならない。

これが我々の主張の要点だった。

平成3年頃、

海部総理は改革を進めようとしておられたが、反対も大きく党内調整は困難を極めた。

「このままでは政治改革は頓挫してしまう」

そんな強い危機感を持った若手議員の会の有志は、総理官邸に押しかけて総理に迫った。

「我々は全力で総理を支えます。改革が党内の反対で立ち行かない時は解散総選挙で国民に信を問うべきです。」

「我々も覚悟はできています。」 仲間の一人が胸のバッチを外して机の上に置いた。

鳩山由紀夫氏であった。

海部総理は「皆さんの気持は良く分かっている。私も覚悟は出来ている」と答えてくれたのだが‥‥

しかし総理は党側の圧力により自らの手で解散することはできずに辞職することになる。

圧力をかけたのは当時自民党副総裁の職にあった金丸信氏であった。

後任の総裁選は、宮沢・渡辺・三塚、三氏で戦われ、宮沢喜一氏が総裁に選出され、第78代総理大臣に就任する。

「まぼろしの落選劇」

公約違反の代償は非常に大きかった。

平成2年2月、私の2度目の選挙は消費税廃止を求める世論の大合唱の中での戦いとなった。

先輩からは、選挙に勝つために地元では『消費税には反対だ』と言っても構わないといわれたが‥‥

それでは有権者に嘘をつくことになる。

「消費税は必要だ」と説明を続けてきたミニ集会も意味を失う。

私は消費税から逃げずに、むしろ選挙に於いて必要性を訴えることを決心した。

政権放送でもそのことに言及した。

支持者の方々からは「わざわざ言うことはない」とお叱りも受けたが、それでも必要性を訴え続けた。

「たとえ辛くても信念を曲げる訳にはいかない。」 そんな気持が、当時、私の中にあったと思う。

ただ、尾上小学校の側を通り過ぎた際、私の選挙カーを見つけた児童達から「あっ渡海だ、消費税反対!」と言われた時は本当に悲しかった。

将来への責任を感じる私の思いが、この子どもたちに伝わっていない。

心の中で「君達が将来苦労しないように頑張っているのに‥‥」私は心の中で叫び、同時に虚しさを感じていた。

この選挙で自民党は300から275へ、大きく議席を減らし、野党第一党の社会党は85から136議席へと大きく躍進した。

社会党土井たか子党首が選挙戦で訴えた「ダメなものはダメ」という言葉は流行語にもなった。

後で分かったことだが、私はこの選挙で一度落選した‥‥、と言うより落選させられた。

候補者である私は、開票当日、呼び出しがあるまで自宅待機している。

社会党の永井孝信氏は追い風に乗って早々と当選、続いて自民党の井上喜一氏も当確となり、最後の一議席を私と民社党の塩田晋氏が争う展開となっていた。

戦いを終えた以上待つしか仕方がない私は自宅で、NHKの速報を見ながら待っていた。

そんな時「もうすぐNHKが当確を打つと連絡があったのですぐ来て下さい」と秘書から連絡が入った。

家を出たところで友人がいて声をかけてくれた。

「えらいことやったなぁ」と友人。

「苦労したけど良かった」と私。

「えっ?」と不思議そうな友人。
後で分かったことだが、ローカル局が誤報で塩田氏に当確を打っていたのだ。

支持者の多くも一度はがっかりされ、選挙事務所から帰られた方もいた様だが、私は全く知らなかった。

それ以来、我が陣営ではNHKの速報しか信用しないこととなっている。

今、考えると、あの時当選していなかったら、その後の一連の動きから新党さきがけへの参加もなかったと思う。

その意味で、強い逆風の選挙を支えてくれた支援者の皆さんには、改めて心から感謝しなければいけない。

「売上税」

話は少し後戻りするが‥‥、私の1期目の最大の出来事は売上税(消費税)の問題だった。

中曽根総理は「大型間接税は導入しない」と明言していたので、私はメディア各社のアンケートに大型間接税反対と答えていた。

ところが選挙が終わると中曽根総理は売上税の導入を提案した。

49項目もの非課税品を設けているので大型間接税ではないとの説明だったが、どう考えても売上税は大型間接税だったと私は思う。

昭和61年秋から、世論は売上税反対の大合唱となり、自民党内でも激しい反対の声があがった。

結局、売上税法案は廃案に追い込まれることとなる。

その後、中曽根総理は、安倍晋太郎・宮沢喜一・竹下登の3氏のなかから、竹下氏を後継指名し退陣。62年秋に竹下内閣が発足した。

そして、新内閣とともに再び大型間接税の導入議論が浮上する。

現在の消費税である。(導入時は3%)
(25年前から、年々増大する社会保障費をまかなうには、広く薄く課税する間接税を充てるしかないとの結論は見えていたのだ。)

激しい議論の末に、昭和63年秋、強行採決で消費税法案は可決。平成元年4月から日本でも付加価値税が導入されることとなった。

消費税は極めて評判が悪かった。

なかでも家計を預かる主婦層の反対は一層厳しかった。

そこで私は、主婦層中心にミニ集会を開催し、消費税の必要性を説明することにした。

支援者のお宅で5~10人の方々に集まって頂き説明をさせて頂く‥‥。初めに「反対の方は?」と聞くとほぼ全員手が揚がる。

約1時間程度説明してからもう1度「これでも反対の方は?」と聞くと7~8割は理解してもらえた。

このミニ集会なくして、私の2回目の当選はなかっただろう。

「ユートピア政治研究会」

昭和63年(1988年)6月18日、朝日新聞が「川崎市助役が一億円利益供与の疑惑」をスクープ報道した。政治とカネをめぐる大事件「リクルート事件」の始まりだった。

その後、株式会社リクルートから、未公開株が中曽根康弘・竹下登・宮澤喜一・安倍晋太郎・渡辺美智雄など大物政治家に譲渡されていたことが相次いで発覚した。

当時の派閥の領袖や幹部が全て関係しているのだから党内では誰も何も言わない。

当時、自民党の一年生議員は、提出法案の勉強や採決要員として全員が国対委員となっていた。

ある時、その国会対策委員会で発言を求めた仲間がいた。

「リクルートの問題はこのまま放っておいたら大変なことになる。党内でこの問題を真剣に議論しなければならない」。その声の主は、武村正義(後の新党さきがけ代表)氏だった。

この発言をきっかけに政治改革について腰を据えて研究しようという話になり、昭和63年夏、1年生議員による勉強会が誕生した。

当時、議員会館で武村氏と隣同士しだった私もチャーターメンバーとして参加した。

井出正一、小川元、金子一義、佐藤謙一郎、杉浦正建、鈴木恒夫、武村正義、渡海紀三朗、鳩山由紀夫、三原朝彦の総勢10人の旗揚げだった。

金のかからない政治、理想の政治を実現しようとのことで、武村氏の発案により勉強会は「ユートピア政治研究会」と命名された。

この会は政治改革を実現する若手議員の会へと発展し、後にメンバーは衆参合わせて38名まで広がりを見せることになる。

金のかからない政治を実現するためには、まず何故政治に金がかかるのかを知らなければならない。それ故に、メンバーの必要経費を分析することになり、理系学部出身であった私と鳩山氏が担当することになった。

かなり以前のことであり、資料が手元に残ってないので正確ではないが、最低でも6500万、最高は1億9000万円(おそらく鳩山氏)、バラツキはあつたが参加メンバー10人の平均は約1億1000万となった。

鳩山氏が分析を試みたが、選挙区の広狭と経費の多寡に若干の関連性はあるものの、それぞれの選挙区事情に差もあり、傾向を結論づけることは難しかった。

ただ、各人とも全体費用の4割程度を秘書の人件費が占め、最大の支出項目だということが分かった。

この分析結果が、その後の政策秘書制度の導入に参考になったと考えている。

ちなみにアメリカでは、ほとんどのスタッフの人件費は公費(国の予算)で賄われている。

この調査はあくまでメンバー内部の検討資料だったが、どういうわけか朝日新聞の記者が嗅ぎつけ資料が外部に流出した。

概要を小さな記事で、とのことだったらしいが、夕刊ではあったものの、一面七段抜き‥‥先輩達からは「手の内をさらすのか?」と大目玉をくらった。

この事件がきっかけで「ユートピア政治研究会」の存在が世の中に知られ、マスコミの注目を集めた。我々は「永田町の下級武士達」と呼ばれることとなった。

「デジタルとアナログの違い」

私の同期の初当選者は自民党だけで46人もいた。

7月7日の選挙に当選したので七夕会と命名した。

(ちなみに平成17年?の郵政選挙における小泉チルドレンは83人で彼等の同期会は8・3会と言うらしい)

初当選から24年を経て今も無傷(=無敗)でいるのは、民主党の鳩山氏を入れて7人になった。すでにお亡くなりになられた方もある。引退された方も数多い。

中には知事に転出された方もある。24年の歳月はとても長いと改めて実感している。

永田町の常識は世の中の非常識と言われる。

ある意味で正しいのだろう。が、これはどの世界でも同じではないだろうか。

所詮、人は自分が暮らす身の回りしか見えていない。

ただ、政(まつりごと)は、すべての国民の生活を左右する。やはり世の中の非常識であってはならないのだ。

私は立候補するまでは、建築設計を業としていた。デザインを決める過程に於いて、壁のカーブの曲がり具合を決めるのに何十枚もの図面を描く。ほんの小さな表現の差について何時間も悩んだり議論したりする。

家に持って帰った図面を並べてどちらが良いか悩んでいると、妻は「大差はないんじゃないの?」とアッサリ言い放ったものだ。永田町での議論も似たところがある。議論がヒートアップすると回りが見えなくなるのだ。

もう一つ、永田町での仕事では手続きが重要だ。

たとえどんなに正しい主張であっても、手続きを間違えると話しが拗れて前に進まなくなる。「俺は聞いていない」の類だ。

だからこそ、誰から順番に情報を伝えるかという手順が非常に重要になる。

私が何よりも苦労したのは、デジタルとアナグロの差であった。

私は根っからの理系で、デジタル思考の人間だから基本的には正しい結論は一つしかないと考える。

良いか悪いか、OKかNOか、真か偽か‥‥良ければOKであり次に進めばいいし、悪ければ他の方法を考える。これがデジタル思考の考え方だ。

しかし(良い悪いは別として)、現実の政治は限りなくアナログ思考の世界であり、良いか悪いかの間に数多くの解が存在し得るのだ。

人間関係が複雑にからみ合って、問題解決をより一層難しくしている。

これを解きほぐす業を備えていたのが我が父元三郎だった。と初当選直後に与野党の先輩からよく聞かされたものだ…。

しかし、私は(母の血を継いだのか)基本的にはデジタル人間だと思う。

今なおアナログが主流の政界に慣れるのにはかなり苦労した気がするし、24年経った今でも、この世界に違和感を覚える時がある。

「初陣で」

昭和61年の7月。最初の熱い選挙を戦う中で、私の中に大きな変化が起きた。

振り返ると、それまでの私はとても奢った人間だったと思う。

自分の人生は、自分の力で切り拓くことができる。結果がでない時は、まだ自分の努力が足りないだけ…、努力さえすれば必ずことを成しとげられる…と考えていた節がある。

他人に助けを頼むのが嫌いで、助けてもらうくらいなら、できなくても良いと考えていた。

つまり自分の運命を左右するのは自分の意志のみ‥‥、人の手は借りないし神も仏もない、理に叶わない出来事もないと考えていたし、信仰心もなかった。

とにかく他人からアレコレ指図されることが大嫌いだった。

そんな私が選挙の候補者になるのだから大変だった。候補者が後援者からの指示に、逐一反論していたら選挙にならない。

聴衆に応じて、周囲の指示のとおり、従順に動く(演じる)のが良き候補者だ。

それができないと、「あんたのことを思うから言ってるのに、聞く耳を持たないなら勝手にしろ‥‥、もう応援はしない」となる。

それまで一滴も酒を飲まなかった私だが、「俺の酒が飲めないのか、酒も飲まずに選挙ができるか」と強要されることも‥度々。

何よりも身にしみて分かったのは、「投票行動は理屈だけでは決まらない」ということだ。

私がいかに正しいことを言ったとしても、有権者に嫌われたら投票してもらえない。私の運命(当落)を握っているのは、他人の意思であって、私の論理の正否ではないのだ。

それに気づいたとき、私は自分よがりの、思い上がった考えを転換せざるを得なかった。

自分の力が及ばないところで、自らの運命が左右されることもあると考えることで、宗教の存在や信仰心も何となく理解できる様になった。

戦前から平成の初めまで続いた中選挙区の時代。複数候補を擁立している自民党候補の敵は自民党候補だった。

同じ政党に所属しているのだから基本的に政策に大差はなく、戦いは有権者へのサービス合戦になりがちだった。

地域でお祭りなどのイベントがあると、お祝いにお酒やご祝儀を持って行く。

葬式には供花を届けて名前を露出するといった行為が横行していた。(今は公職選挙法が改正されて禁止されているが‥‥)選挙にお金がかかると言われる所以だ。

同じ政党の中で争うのだから、政党内の派閥が後ろ盾となり、選挙応援も派閥中心となる。

自ずと政党が掲げる政策は無用の品となった。

後に小選挙区制が導入された理由の一つにもなった中選挙区の弊害である。
(もっとも小選挙区になった今でも、事実上の派閥は残っているし、その意義が全否定されるものでもないのだが‥‥)

そんな訳で当時は自民党では自分党だと言われていた。

自らの選挙を通じて、自分党を維持できるのは、父の残してくれた大きな財産(いわゆる地盤と看板)のおかげだということを痛いほど感じた。

「渡海」という名前は日本全国探してもそれ程ない。しかも父が元三郎で私が紀三朗。挨拶廻りで名刺を出すだけで、相手は私が何者かわかってもらえる。

それだけ時間も節約できる。

東播磨の選挙区内には、「父親に世話になった」と言ってくださる方々が沢山いらっしゃる。

ただ、世話になったという人にも2種類あった。

一つは、婚姻や就職のお世話をはじめ、個人的に深い交わりがあり、父の人格に惚れ込んだという方々、もう一つは、公的な役職(悪く言えば利権)を通じて世話になったという方だ。

振り返ってみると、井上先生が強かった北播において、最後まで私の後援会に止まり、ご支援を頂いた方々は主に前者であった。公的な職務を通じて世話になったと言われる方は、地域の大勢が井上氏支持に傾けば自ずとその動きになびいた。(ただ、悔しいが、その行動を否定することはできない…)

父は地元中の地元である曽根町で、自らを称し、公然と「渡海は曽根のやっかい者」と言っていた。

選挙は多くの支持者に迷惑をかける大仕事だ。ご支持いただく方々の大変なお世話なくして、勝利はおぼつかない。

立候補の挨拶廻りをしているときに、農協の組合長に「渡海さん、あんた、初めはおやじさんの跡を継がないと言っていたそうじゃないか?」と言われて‥‥

「私は政治家には向いていないと思っていたし、それに親子2代続いて多くの人に迷惑をかけるのが嫌だった」と正直に話したら‥‥

「ええかっこするんやない。選挙は他人に迷惑をかけるもんや、もうオヤジさんに十分迷惑かけられとる。そやけど、あんたが一人前の政治家になったら、誰もこの選挙を迷惑やとは言わん。」と諭された。

本当に目からうろこが落ちる思いであった。

以来、私は選挙では地元の方々に思いっきり迷惑をかける。お世話になる。そして、親の七光りの幸せは、ありがたく頂戴する。その代わり、その支援には政治の仕事でしっかりと応えると考えることにした。

父の死から1年余り、立候補を表明してから10ヵ月後。私は昭和61年7月7日の衆参同日選挙で初当選を果たした。(翌日開票が待ち遠しく、8日午前の当選の報に本当に感涙した。)

バンザイをして涙を流して支援者の皆さんと喜び合って‥‥

でも喜びという至福の時が過ぎると私の心に残ったのは、支援の期待に応えなければならない責任の重圧と新しい生活に対する言いようのない不安感だった。

こうして私の衆議院議員としての第一歩が始まった。

もう後には戻れないのだ。

「政治家は過去を振り返ってはいけない。」

生前父親が言っていた言葉が身にしみた。

「猛暑の初陣」

昭和61年の冬、心の準備もなかった私の初陣のキャッチフレーズは「38才頑張ります」(最初のポスターは「37才頑張ります」だったと思うが)、もう一つの「はりま燃ゆ」は故中川昭一先生の「道東燃ゆ」のパクリだった。

公約は「清く正しい政治との父の政治姿勢を守る」「全力を尽くす」の2つだけ‥‥、今から考えるといささか恥ずかしい。

以前の仕事のフォローもあり、私は「敗けたら帰って来たらいい」との社長の言葉に甘え、日建設計に在席のまま実質的な選挙戦をスタートさせた。

「やることをやるだけ‥‥、勝ち負けは結果でしかない。負けたら、また、元の生活に戻れば良いのだから負けることは恐くない。」当初はそんな気持だった。

しかし現実は甘くはなかった。

私のために多くの方々が労力と時間と経済的支援を提供して頂いている。

その支援に応えるためには勝つしかない。

私は自分の中にあった甘えの気持を払拭するために会社に辞表を出した。

実は、私は昭和55年に一度、最前線で選挙を体験したことがあった。

とは言っても、病床にあって選挙区に帰れない父の代理としてである。父と私は骨格が良く似ている。当時の新聞紙上では影武者と書かれたりもした。

だが、自らが本物の候補者になってみると、私は父の代理選挙と自分自身の選挙が全く違うことに気づいた。

父の代理であった私は、世間から被害者として見られていた。

だから寝不足で目の下に隈があっても「お父さんのために可哀想に」となる。

自分が候補者になると同じ目の下の隈が「元気がない ~ 体調は大丈夫か?」となる。

それに私が選挙をすることで、多くの人々にお手伝いをいただくことになるのだから「貴方のためにやっているのに、貴方が選挙をしなければ私は楽できるのに~」となり、ある意味で私は加害者となる。

同じ選挙運動でも、候補者本人と代理では世間の見方は正反対だ。

立候補表明の後まず問題となったのは、父の病気報告の時に言った「私は跡を継ぎません」との言葉だった。

一部の人に非公式に伝えただけとは言え、一度やらないと言ったのが、やることになったのだから弁解の余地はない。

父が大変お世話になった方に「嘘つき」と言われたことが、今でも心の中に微かな罪悪感として残っている。

結局最後まで、党内の候補者調整はつかず、自民党は当選者3人の選挙区に、私と井上喜一氏の二人を公認することになった。相手は、社会党、公明党、民社党の現職。激しい戦いの結果、61年夏の選挙は、自民党は二人とも当選を果たすことができた。

父一人でも落選した58年の選挙から、二人で12万票以上積み上げたことになる。

今回の参議院選挙で、民主党の小沢前幹事長が複数区に二人以上の候補を擁立し、党勢の拡大を図ると言っていたが、私と井上氏の初陣を見る限りこの戦法は正しいと言える。

「運命の日、そして始まりの日」4

その後、塩川正十郎先生から東京に出て来いと呼び出された。

当時(中選挙区の時代)、全国130選挙区の中で自民党空白区は2カ所しかなかった。その一つが我が兵庫3区であった。

自民党としては「何としても空白区を解消しなければならない」との命題があり、そのためには候補者の一本化が必要であると言われていた。

「兵庫3区の公認問題で、3人の候補が乱立して混乱している。あんたが出れば一本化ができる。最終の決定は党本部で行うのでとにかく手を挙げてくれ。やるかやらないかはそれから考えてもいい」と塩川先生に言われもした。

ある時、高砂市の後援会の若手リーダと言われる方々が「どうしてもお父さんの遺志を継いで立候補をして欲しい」と10名の血判状を持って来られたこともあった。

『何故、立候補を決意したのか?』、と聞かれると‥‥、

様々な要因があったと答えるのが最も真実に近い。様々な要因、すなわち父の後援会、会社の社長、永田町の論理、地元の若手支持者の血判状などなど。

最終的に私は、「まず手を挙げることでその様々な要望や意見に応えることができる、多分、調整はできないだろうから、その場合は辞退したら良いことだ」と考えた。

予想通り、兵庫3区の候補者調整は不調に終わった。党本部での一本化も実現しない。

塩川先生に「話が違う」と言ったが、「うまく行くと思ったんやけどなぁ~、悪いわるいハッハッハ」でおしまい‥‥

事前の予定では、方向転換をすべき事態が目の前にあった。しかし、もうそれはできなくなっていた。既に多くの人が動き出し、引き下がることはできなかったのだ。

「こうなったら選挙の結果で判断するしかない」私に残された道は前進しかなかった。

全力で戦い、当選したら政治家としての人生が待っているし、落選したら政治家には向いてないと判断できる。

今から振り返ると、いささか無責任との謗りを受けなければならないのではと思うが、私、渡海紀三朗はこういう経過で、立候補の意思を固め、衆議院議員選挙に臨んだのである。

「運命の日、そして始まりの日」3

葬儀のお礼や自宅の整理で、慌ただしい日々を過ごしていた頃、高砂の後援会長であった籠谷幸夫氏(当時、高砂商工会議所会頭)に呼ばれた。

父の後を継いで欲しいとの要請だった。

籠谷氏から言われた。

「紀三朗君、わしらはこれまで地域発展のために努力して来た。そのために代表として君の親父を支え国へ送り出して来た。親父さんも頑張ったけど、わしらも頑張った。親父が出世したのは親父が偉かったこともあるが、半分は支えて来た皆の努力だ。その努力を無駄にしないで欲しい。」

「何故私なんですか?」と私。

「選挙に勝つには渡海の名前が必要だ」と籠谷氏、

そんなやり取りが続いて、最後に籠谷氏が

「わしも市議会議員をやっていたから選挙での家族の苦労は痛い程分かる。だから君に強要はしない。ただ、くり返し言っとくが、(君が立たないと、)これまでの親父さんの支持者の積み上げた努力が無駄になることだけは考えてくれ」

「その上で、君の人生をどうするかは君が決めたらいい」と締められた。

ちょうど同時期、当時勤めていた日建設計の社長から社長室に来いと呼び出された。

当時の社長は、日建設計の発展を支えた最大の功労者の一人で、一社員の私には雲の上の存在であった。

その社長からいきなり社長室に呼ばれたのだから一大事であり、その時の会話は今も鮮明に覚えている。

「塩川が渡海はんの息子が跡を継がないと言うので、ひとつあんた(社長)から口説いて欲しいと言われた」と社長。

「ちょっと待って下さい、私は会社で役に立ってないと言うことですか?会社に必要ない人間なのですか?」と私。

それに対し「君が役に立ってないとは言わないが我が社は大会社だ。君一人居なくなっても大きな影響はない」と‥‥。

「まだやり残した仕事もあるし、家族だって心配している」と私。

最後に社長は、「負けたら又、会社に戻ってきたら良い。自分の人生も大事だが、世のため人のために仕事をすることも一つの人生の選択だ」と‥‥

その後、塩川正十郎先生から東京に出て来いと呼び出された。

「運命の日、そして始まりの日」 2

昭和60年5月2日、かねてより療養中であった父・渡海元三郎が逝去した。満70歳、当時の男性の平均年齢が74.8歳であったから少々短い人生だったと言えるのかも知れない。

以後私の人生は急変する事になった。

私はそれまでほとんど父の後継者となる事は考えてなかった。

政治に関心がなかったからではない。選挙が嫌いだったからだ。

人に頭を下げる事も嫌いだったし、他人に借りをつくる事も大嫌いだった。

長い間政治家としての父の生活を見ててこんな人生は送りたくないと考えていたからだ。

父が亡くなる9年前、私が28歳の時に母が急逝をし、その思いは一層深くなっていた。

選挙区を守り抜いて来た母は、永年の心労から肝硬変を煩い食道間脈粒破裂による大量出血により若くして壮絶な死を遂げた。

だから私は父の死が近いと医者に告げられ、後援会幹部に報告した時に、跡は継がないと自分の意志を告げた。その事が後で混乱の原因となったのだが‥‥。

大物政治家(息子の私が言うのはおかしいが)の葬儀は大変だ。

自宅での密葬、高砂市民葬、東京での自民党による葬儀と3回の葬儀に追われた。

東京での葬儀が終わった後、私は葬儀委員長の福田赴夫元総理の自宅にお礼に伺った。

「君はお父さんの跡を継がないと言っているそうだが?」と元総理に言われ、

「私は政治については何も分からない ~ 国家予算についても何も知らない、そんな私が政治をやってもいいのですか? 有権者に失礼では?」と私

「渡海君、予算なんか半年も勉強すればすぐ分かる。政治をやるのに大切なのは国家と国民に尽くす気があるかどうかだ」と福田総理が

「でも何故私なんですか、他に適当な人がいると思いますが」と私、(事実その時既に手を上げてる人が3人いた)

「うんそうだな、まぁ派閥の都合もあるしな‥‥ワハハ」と元総理

そんなやりとりがあったが、それでも私は丁重にお断りした。