「運命の日、そして始まりの日」 2

昭和60年5月2日、かねてより療養中であった父・渡海元三郎が逝去した。満70歳、当時の男性の平均年齢が74.8歳であったから少々短い人生だったと言えるのかも知れない。

以後私の人生は急変する事になった。

私はそれまでほとんど父の後継者となる事は考えてなかった。

政治に関心がなかったからではない。選挙が嫌いだったからだ。

人に頭を下げる事も嫌いだったし、他人に借りをつくる事も大嫌いだった。

長い間政治家としての父の生活を見ててこんな人生は送りたくないと考えていたからだ。

父が亡くなる9年前、私が28歳の時に母が急逝をし、その思いは一層深くなっていた。

選挙区を守り抜いて来た母は、永年の心労から肝硬変を煩い食道間脈粒破裂による大量出血により若くして壮絶な死を遂げた。

だから私は父の死が近いと医者に告げられ、後援会幹部に報告した時に、跡は継がないと自分の意志を告げた。その事が後で混乱の原因となったのだが‥‥。

大物政治家(息子の私が言うのはおかしいが)の葬儀は大変だ。

自宅での密葬、高砂市民葬、東京での自民党による葬儀と3回の葬儀に追われた。

東京での葬儀が終わった後、私は葬儀委員長の福田赴夫元総理の自宅にお礼に伺った。

「君はお父さんの跡を継がないと言っているそうだが?」と元総理に言われ、

「私は政治については何も分からない ~ 国家予算についても何も知らない、そんな私が政治をやってもいいのですか? 有権者に失礼では?」と私

「渡海君、予算なんか半年も勉強すればすぐ分かる。政治をやるのに大切なのは国家と国民に尽くす気があるかどうかだ」と福田総理が

「でも何故私なんですか、他に適当な人がいると思いますが」と私、(事実その時既に手を上げてる人が3人いた)

「うんそうだな、まぁ派閥の都合もあるしな‥‥ワハハ」と元総理

そんなやりとりがあったが、それでも私は丁重にお断りした。