「運命の日、そして始まりの日」4

その後、塩川正十郎先生から東京に出て来いと呼び出された。

当時(中選挙区の時代)、全国130選挙区の中で自民党空白区は2カ所しかなかった。その一つが我が兵庫3区であった。

自民党としては「何としても空白区を解消しなければならない」との命題があり、そのためには候補者の一本化が必要であると言われていた。

「兵庫3区の公認問題で、3人の候補が乱立して混乱している。あんたが出れば一本化ができる。最終の決定は党本部で行うのでとにかく手を挙げてくれ。やるかやらないかはそれから考えてもいい」と塩川先生に言われもした。

ある時、高砂市の後援会の若手リーダと言われる方々が「どうしてもお父さんの遺志を継いで立候補をして欲しい」と10名の血判状を持って来られたこともあった。

『何故、立候補を決意したのか?』、と聞かれると‥‥、

様々な要因があったと答えるのが最も真実に近い。様々な要因、すなわち父の後援会、会社の社長、永田町の論理、地元の若手支持者の血判状などなど。

最終的に私は、「まず手を挙げることでその様々な要望や意見に応えることができる、多分、調整はできないだろうから、その場合は辞退したら良いことだ」と考えた。

予想通り、兵庫3区の候補者調整は不調に終わった。党本部での一本化も実現しない。

塩川先生に「話が違う」と言ったが、「うまく行くと思ったんやけどなぁ~、悪いわるいハッハッハ」でおしまい‥‥

事前の予定では、方向転換をすべき事態が目の前にあった。しかし、もうそれはできなくなっていた。既に多くの人が動き出し、引き下がることはできなかったのだ。

「こうなったら選挙の結果で判断するしかない」私に残された道は前進しかなかった。

全力で戦い、当選したら政治家としての人生が待っているし、落選したら政治家には向いてないと判断できる。

今から振り返ると、いささか無責任との謗りを受けなければならないのではと思うが、私、渡海紀三朗はこういう経過で、立候補の意思を固め、衆議院議員選挙に臨んだのである。