【細川内閣の終焉】 平成6年春

一方予算委員会では、自民党が細川さんの佐川急便グループからの借入金処理問題を、前年に引き続き徹底的に追及し続けていた。

予算委員会の理事は井手さんだったが、統一会派の政調会長と兼務では忙しすぎるということで私にお鉢が廻ってきた。

与党選出の理事として最も重要な仕事は、細川総理の証人喚問を阻止すること。

しかしそれは、私に最も合わない仕事だった。

かねがね私は「政治家は疑惑が生じたら、自ら進んで堂々と国会で晴らせばよい。」と主張していたからだ。

何度も断ったが、どうしてもとのことで、最後には引き受けざるを得なくなる。

当時の自民党予算委員会理事は非常に手強かった。

特に野中広務さんと深谷隆さんは本当に喧嘩が上手だった。

二人はそれぞれ革新自治体だった蜷川京都府政、美濃部東京都政の府議、都議として、野党としての闘い方を熟知していたのだ。

自民党をはじめ野党の予算審議拒否により政権は立ち往生状態に陥り、4月8日に細川総理は辞意を表明、内閣は4月25日の閣議で総辞職することになった。

約45年ぶりの非自民政権として、国民の圧倒的な支持のもとにスタートした細川内閣だったが、約9ヶ月の短命内閣に終わってしまった。

当初の約束であった「(さきがけと日本新党を)統合して新党を作る」という話も一向に進展しないまま、日本新党は統一会派を離脱、新党構想はあえなく消滅する。

しかし、日本新党の中にも細川さんのやり方に不満を持つ議員がいた。

まず、小沢鋭仁、五十嵐文彦、中島章の3氏が日本新党を離党、院内会派「グループ青雲」を立ち上げた。

続いて、荒井聡、前原誠司、枝野幸男、高見裕一の4氏も日本新党を離党、「民主の風」を立ち上げた。

彼らは後にそろって新党さきがけに合流する。

離党の際、前原さんが「我々の志はいささかも変わっていない。細川さんが当初の改革の旗を降ろしてしまったのだ。」と言ったことが、今も鮮明に思い出される。

【あやまちを改むるに憚ることなかれ】 平成6年冬

政治改革関連法案が成立した直後の平成6年2月2日、大事件が発生した。

小沢さんと細川さん(そして、斉藤大蔵次官)の手による国民福祉税構想である。

2日の深夜、武村さんに呼ばれて官邸の官房長官室に駆けつけた。

いつもの武村さんと様子が違う。すごい剣幕で怒っている。

「こんなことは許されない。イギリスで議会が誕生したのは国民に税を課したからだ。納税する以上、国民には意見を言う権利もある。だから国民の代表として議会が創立されたのだ。」

「園ちゃん、あんたも知らなかったのか?」とめずらしく激しい口調で園田さん(博之、さきがけ・日本新党代表幹事)を問い詰めている。

「俺も夕方まで聞かされていなかった。それまで福祉税の話は全く議論されていなかった。結果的に騙された気がする。」と園田さん。

すばらしく勘が良く交渉力もある園田さんが、いつになく元気がないのだ。

武村さんによると、細川さんと総理執務室で雑談していたらノックもなしに与党代表者会議のメンバー(小沢一郎、市川雄一他数人)が入ってきて、細川総理を囲んで座り込んだとのこと。

「消費税を上げましょう。」といきなり言いだして。

大蔵省から「国民福祉税」という一枚のペーパーが配られて。

その紙には、「消費税を国民福祉税にする。税率は7パーセント。」

と書いてあったそうだ。

武村さんはその日の午前中にも細川さんと会い、「いずれ消費税の引き上げは必要だが、今はまだ環境が整ってない。」と意見が一致していた。だから「細川さんは小沢さんらの呼びかけに簡単に応じることはあるまい。」と思い、先に部屋を出て園田さんに経緯を確かめていたところだった。

ところが、24時を過ぎ3日になった頃。突然、「総理記者会見が行われる。」

との連絡が官房長官室に入った。

武村さんが慌てて止めに行こうとしたけど、総理はすでに部屋を出た後だった。

武村さんの秘書官(勝栄二郎、現財務省事務次官)が、「長官、早く会見室へ行かないと。」と呼びにきたが。

「うるさい。君の出る幕じゃない。」と武村さんが凄まじい剣幕で怒鳴りつけた。

そばに居た鳩山由紀夫さんがどうしたものかと身動きが取れなくなっている。

私が、「鳩山さんまで行かないということになると、総理とさきがけとの関係はとことん悪くなる。貴方は会見に同席したほうが良い。」と言うと、鳩山さんはやっと腰を上げた。

咄嗟の判断ではあったが、後で鳩山さんの同席が事態収拾に意味を持つことになる。

数日後、国民福祉税構想は、政権内部はもとより国民からも激しい反発を受け、白紙撤回を余儀なくされる。

深夜の記者会見で税率7パーセント(当時の税率は3%)の根拠を聞かれ、総理が「腰だめの数値です。」と答えたのもまずかった。

国民に新たな税負担をお願いする時には、その根拠をはっきり示さないといけない。

(先の参議院選挙事の菅総理の消費税発言「10%」にも同じことが言える。)

この一件が細川さんと武村さんの間に大きな亀裂を生じさせた。

困ったことに二人がお互い意地を張って話もしない。

政府の最高責任者である総理と、その女房役、懐刀であるべき官房長官のコミュニケーションがないのだから、当然ながら、官邸は機能不全になる。

統一会派の総会で日本新党の議員は「武村が悪い」と我々を責め立てた。

そんな時、井手さん(政調会長)が「あやまちを改むるに憚ることなかれ。」と言い残して席を立った。

いつも静かな井手さんのこの一言で、その場の空気は変わったのだが…。

定例記者会見で武村さんが全く同じ言葉を用いたのにはいささか驚いた。

世代が同じだと考え方や言葉遣いまで近いのかもしれない。

とにかく細川さんと武村さんの関係を修復しなければならない。

鳩山さんが細川さんを、私が武村さんを説得したが、二人とも歩み寄ろうとしない。

武村さんとは連絡さえ取れなくなってしまった。

一件を案じて助けてくれたのが北川正恭さん(当時自民党、後の三重県知事)だった。

自民党清和会(安倍派)で、年下ではあるが当選回数で一期先輩の北川さんが、高輪宿舎の武村さんの部屋に押しかけ説得をしてくれたのだ。

結局、武村さんの方から細川さんに声をかけることで一件落着。細川さんも「私も手続きを間違えていた。」と応じたことで関係修復の体裁を整え、官邸は機能を回復した。

しかし、二人の信頼関係は二度と元に戻ることはなかった。

【政と官】 平成5年末

政治改革法案の国会審議と並行して平成6年度の予算編成が行われた。七党一会派による連立政権だから調整に時間がかかる。

それでも、たとえ大晦日までかかっても年内に編成すると細川総理が決断、藤井大蔵大臣に指示を出した。

ところが、「分かりました。」と快諾して大蔵省に帰った藤井大臣から、一向に連絡が入らない。

それどころか、武村官房長官が連絡を入れても連絡がつかない。

「どうなっているんだ。」と言っているところへ斉藤次郎事務次官がやってきて言うには、「年内編成は時間がないから物理的に無理です。大臣に代わって大蔵省の結論を報告に参りました。」と。

武村官房長官が「冗談じゃない。これは総理の指示だ。徹夜してでもやれ。」と返すと。

「我々としては、このスケジュールでは無理だと判断しています。やれるなら、皆さんでやって下さい。」と事務次官。

我々の政治主導は、大蔵官僚の抵抗の前に敢え無く崩れた。

その時私は「こいつだけは許せない。この顔は絶対に忘れない。」と思った…。

その後、斉藤事務次官は村山内閣時代に表面化した住専がらみの大蔵スキャンダルの責任を取って次官を辞任することになる。

今では信じられない話だが、当時の大蔵官僚は総理大臣の指示を跳ね返すくらい強かったのだ。ひょっとして、今でもそうなのかも知れないが…。

斉藤氏は今、亀井静香前郵政担当相の要請により、日本郵政の社長に就任している。

余談になるが、あれ以来、毎年正月になると今でも添え書き付の賀状が届く…。

いささか、不可解な気がしないでもない。

後から分かったことだが、当時の連立与党の実力者、小沢さんが予算原案よりも政治改革関連法案の成立を優先したという背景もあったのだ。

【細川政権】 平成5年秋~冬

細川さんは、以前の総理とは一味違ったスタイルを持っていた。

本会議の壇上の演説で一礼する仕草や、記者会見の仕草もスマートである。

今ではあたり前になっているスピーチでのプロンプター使用だが、初めて導入した総理は細川さんだった。

細川内閣がまず直面した課題はWTO農業交渉での米の市場開放問題だ。

日本は貿易立国である。

資源を持たない日本は原料を輸入し、高い付加価値を持った工業製品を輸出することで富を得ている。

日本製品を輸出するには日本も海外からの輸入障壁を取り払う必要を迫られる。

農産物についての圧力が最も強かった。

オレンジや牛肉…、様々な農産物について自由化を進めていき、最後に残ったのがコメの市場開放だった。

いうまでもなく、コメは我が国の主食であり日本農業の柱である。

日本の文化形成の礎でもある。

同時に農村は自民党の大票田でもある。

まさに、米作農業を守るために国は様々な政策で保護してきた。

しかし、手厚い保護政策は国際競争力を弱め、かえって米作農家の足腰を弱くしたとも言える。

輸入を自由化すれば、生産コストの高い日本のコメは大きな打撃を受ける。

かと言って貿易収支で大きな利益を得ている日本が、いつまでも門戸を開かないでいることは国際社会では許されない。

ギリギリの交渉の末、段階的に市場開放を進めることで決着をみた。

国内の調整は深夜に及び、我々は最後に残った社会党の党内調整を官邸の総理執務室で待っていた。

その時突然、「この問題が決着すれば、次は消費税の税率アップですね。」と細川総理が言い出した。

コメの市場開放という大仕事が終わったばかりなのに何を言い出すのかと思って「冗談でしょう?」と言ったら、「本気です。」と笑っておられたが…。

後から考えると、この時すでに国民福祉税の構想があったのかも知れない。

余談になるが、先日(2010年7月)の参議選における菅総理の消費税発言についても同じ影を見た気がしている。

総理大臣というものは、歴史に偉業を残したいと考える傾向があるのだ。

一方、政治改革政権を旗印に誕生した細川連立政権であるが、国会における政治改革関連法案の審議は遅々として進まない。

小選挙区比例代表並立制の導入という選挙制度の大改正も含まれているのだから、ある程度時間がかかるのは仕方ないのだが…。

秋から始まった臨時国会は会期延長により越年。平成6年の国会審議は正月を返上し、1月4日から始まった。

憲政史上、異例の出来事だった。

結局、難航した政治改革関連法案は、臨時国会最終日の1月29日に成立した。

当初の予定だった年内成立はずれ込んだものの、六年越しに二つの内閣(海部、宮沢両内閣)を潰した法案がついに成立したのだ。

成立の背景には細川総理の国民的人気もあったが、その原動力は変革を求める国民世論だったと私は思っている。

「細川政権誕生の裏舞台」 平成5年夏その2

7月29日には連立政権樹立に関する合意事項に各党がサイン、いよいよ非自民・非共産の政治改革政権の準備が整った。

(新党さきがけ、日本新党、新生党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合、民主改革連合)

ところが政権のスタートの首班指名でハプニングが起きた。

首班指名は記名投票であり、衆議院事務局の職員が議員名を点呼することになっているが、名簿を一頁飛ばして読み上げてしまったのだ。

途中で気がついて慌て飛ばした頁を読み上げたが、野党になりかけていた自民党が了承しない。

結局、本会議は一度休憩し、首班指名はやり直しとなった。

休憩の間に国会内の細川さんと武村さんが居る控室に行くと、さきがけのメンバーはいたが日本新党側の姿が見えない。

そのときから、熊本藩主の末裔でもある細川氏を、我々は「殿」と呼ぶことにした。日本新党では創業者である細川さんは一段高い存在であり、近寄り難い存在だったのだ。

仕切り直しの首班指名が終わり、8月9日、7党1会派連立の細川内閣が発足した。

さきがけと日本新党は選挙前の約束どおり、院内統一会派を組むこととなる。

私の役割は院内幹事(国対委員長)と運営委員長。運営委員長の仕事とは、さきがけと日本新党の合併準備委員会の座長である。

日本新党は新人議員ばかりなので、統一会派の主要な役職はほとんどさきがけが占めることとなる。

政調会長 井手正一、代表幹事 園田博之、細川総理の元で官房長官 武村正義、官房副長官鳩山由紀夫、総理補佐官 田中秀征など…。

当時さきがけは15人、日本新党は38人だったと記憶しているが…、圧倒的に人数の多い日本新党にはポストの配分で不満が残った。

不満は細川さんではなく武村さんに向けられる。

結局、翌年4月の細川総理辞任により統一会派は解消されることとなるのだが…、運営委員長としての7ヵ月間は日本新党の不満で苦労の多い日々が続いた。

【非自民政権の樹立】 平成5年夏

平成5年7月18日、第40回衆議院総選挙の結果、新党さきがけ、新生党、日本新党の3党で100議席余りを獲得。

自民党の単独政権が不可能となったことにより、新しい政権の軸が、「自民」か「非自民」のどちらになるかに国民、マスコミの関心が集中した。13人の新党さきがけは怒涛の日々を過ごすことになった。

さきがけと日本新党(統一会派)以外は既に自民・非自民に色分けされており、我々がついた方が与党になる…。

我々には、野党という選択は残されてなかったということだ。

当面は野党としてじっくり力を貯えようと考えていたはずだったが、現実は我々に時間を与えてくれなかったのだ。

練習場にも行かないでいきなりゴルフコースに出なければならない。

それが新党さきがけの運命だった。

「自民党ではダメだ」と離党したのだから、自民と組んだのでは意味がない。

かといって非自民というだけで結集したとしても、何を目的にするのかはっきりしない。

そこで我々は自ら新しい政権が何をすべきかを提案することとした。

「政治改革政権の提唱」である。

田中秀征氏が起草した要点は次の通りだ。

①景気対策等の懸案が遅滞しているのは「政治改革」が進まないからだ。

②したがって、「政治改革」を早期に優先的に片づける政権をつくる。

③政治改革の具体案を示し、それに賛同する政党がこの政権をつくる。

④政権への参加は全党に呼びかけ、特別国会まで回答を待つ。

7月23日に細川・武村・田中、三氏による記者会見が行なわれた。

直後から私と井手正一さんが提言書を持って各党を廻った。

提言書は共産党を含む全ての政党に届けた。

新生党の本部では渡辺恒三氏(現民主党最高顧問)が対応されたが、提言書を見るなり読みもしないで「う~ん、良くできている。さすがさきがけだ。羽田党首が4階に居るので会ってくれ。」と言われ、我々は慌てて退散した。

羽田党首と井手さんは選挙区が同じで、親子2代に亘って選挙を戦ってきた関係にあったのだ。

私が知る限り政治改革政権の提唱について一番真摯に対応されたのは自民党だった。

一部修正はあったものの我々の提案を真正面から受け止めて苦悩し、ついにはそれに近い線まで歩み寄って党議決定までしたのだ。

(この党議決定が政治改革国会の最終局面に至って効果を発揮することとなる。)

自民党の回答を三塚博幹事長(当時)が、高輪の日本新党本部に持ってこられるとの連絡が入った。

ところが時間になって気がついてみると、武村さんも細川さんも田中さんも党本部に姿が見えない。

仕方がないので私と井手さんで対応したが、後々振り返れば、3人は意識的に姿を消されたのだと思う。

おそらくこの時点で既に細川氏を首班とする非自民の枠組は、決まっていたのではないかと私は思っている。

他党がいわゆる丸呑みであったとはいえ、自民党の回答もほぼ満足のできるものだった。

ただ、自民党政治を変えるという目的で離党した我々としては、非自民の選択をせざるを得なかったというのが真実であった。

この様な経緯を経て、我々は心ならずもまた与党になってしまった。しかも総理を擁する会派に…。

「旅立ち、新党さきがけ結成」

解散の本会議が終わってTV局へ集合することになっていたが、役所の私の部屋で幹部が私が帰るまで待っているとの連絡を受けた。

約30人が温かく迎えてくれたのは本当に嬉しかった。

大きな拍手に送られて、集合場所となっていた都内のマンションへ向かった。

深夜になって田中秀征氏に朝日新聞の記者から連絡が入った。

「我々が離党したので、小沢グループも離党せざるを得なくなった」とのことだった。

小沢氏や羽田氏がどう考えていたのかは知らないが、少なくともメンバーの多くは離党を決意して不信任案に賛成したのではないことだけは記しておきたい。

武村氏は我々の新党が小沢グループの新党で霞んでしまうといささか焦っていたが、私は違うと思った。

自民党はそれ程甘くない。

これで自民党の敵は小沢グループとなり、弱小政党のさきがけは自民党からの風圧を正面から受けることなく戦える。この方が戦い易いと私は思ったのだ。

事実我々は自民党からの圧力をそれ程受けることなく戦いを展開できた。

解散の次の日、私は地元に帰り待っていた約450名の支持者に自分の思いを伝えた。

帰りの新幹線の中で私の中にまだ一抹の不安が残っていた。

兵庫3区では昭和51年に小林正巳氏が新自由クラブの旗揚げに参加してその後落選、引退した経緯がある。

小林氏も私も世襲議員だ。

支持者の皆さんは私に小林氏の影を見るのではないのだろうか? そんな不安だ。

しかし誰一人異論は出なかった。

それどころか、話が終わった瞬間にわれんばかりの拍手が起こった。

高砂市の自民党支部では全員が離党し、自民党高砂支部は消滅した。

月曜日、いよいよ新党の旗揚げの日だ。

朝からメンバー全員が集まり午後の記者会見に向け最後の意見交換をした。

田中秀征氏が週末に素晴らしい立党宣言を書き上げていた。

当所新党名は新生党(小沢氏のグループが立ち上げた新党名も新生党)となっていたが、岩屋・簗瀬両氏が合流して、「そんな古くさい名前はだめだ。改革の先頭を切るのだから『さきがけ』がいい」と提案し、誰一人異論なく「さきがけ」と決まった。

「魁」や「先駆」なども案としてはあったが、ひらがなの方が柔らかい感じがするとの提案もあり、響きが良いとのことで新党を前にして「新党さきがけ」とした。

ロゴマークは簗瀬氏の友人がデザインした「魁」を柔らかく表現したものだった。

ロゴをプリントしたTシャツを販売して買って貰ったが、飛ぶように売れた。

選挙が終わっても「魁」のTシャツを着たお年寄りがゲートボールを楽しんでいる姿をあちこちで目にした。

嬉しかった。

新党ブームの追い風が吹いたこの選挙では思った以上に得票が増えた。

当初我々は5年がかりで2大政党を創ろうと考えていたので、しばらくは野党暮しと覚悟していたのだが‥‥

事態は予想していなかった展開へと進んで行く。

細川連立政権の樹立だ。

仕かけ人は小沢一郎氏だった。

「内閣不信任案可決」

去る人もいれば直前に参加したメンバーもいた。

解散の2日前に国会近くのホテルのロビーで岩屋毅氏に出会った。

「渡海さん、2回生には離党をするくらいの覚悟のある人はいないんですか?」岩屋氏が言った。

「そう言うけど1回生にはいるのか? 何人くらい?」と私

「うーん、確実なのは私と簗瀬と岡田の3人くらいですが‥‥」と岩屋氏

「分かった、武村さんと会ってくれ」とのことで簗瀬・岩屋両氏が新しいメンバーとして加わった。(岡田克也氏は小沢さんと行動を共にすることになった)

いよいよ解散の当日、最後まで意見が分かれたのは不信任案への対応だった。

「離党するのに不信任案に反対するのは理解を得られないのでは?」と武村氏。

「まだ自民党に席を置いているのに、野党の提出した不信任案に賛成するのはおかしい」と私。

私は絶対に譲らなかった。

親子2代自民党で選挙をしている。最後のご奉公、恩返しと考えたからだ。

「新党を立ち上げたら一致結束して行動したら良い」 未だ新党は結成されていないのだからそれぞれが自分の判断で投票したら良い。との私の意見が受けいれられ、それぞれ自分の意志で投票した。

宏池会に所属していた岩屋氏は欠席、簗瀬氏は賛成、後は全員反対票を投じた。

後で梶山幹事長からは「さきがけはスリッパを揃えて家出した」と言われたことを今も覚えている。

不信任案の採決に向かう本会議場の入り口で、北川正恭氏(後の三重県知事)に呼び止められた。

「ある先輩が物心両面に於いて選挙の支援をしたいと言っているので、若手をまとめてくれないか?」と北川氏

「悪いですが私はその役はできません」と私

勘の良い北川氏が「武村も一諸か?」と

「これ以上話すと先生に迷惑がかかります」と私

田中秀征氏のアドバイスが役に立った。

その時本会議のベルが鳴った。

投票が続いている間中、本会議場後方で派閥の幹部が慌ただしく動いていた。

不信任案に賛成した小沢氏のグループには野党席から大きな拍手が贈られた。

反対に政治改革を主張しながら反対した私達にはヤジの嵐がふり注がれた。

不信任案可決の本会議が終了すると同時に我々は離党届けを提出、ホテルでの記者会見に臨んだ。

新党さきがけがうぶ声をあげようとしていた。

もう後には戻れないのだ。

当時私は科学技術政務次官だった。

「再び、若手議員の会」

年が明けてから新党結成の準備も着々と進んでいた。

平行した若手議員の会も活発に活動していた。

そんなある時TVのニュース番組に出演した宮沢総理が、選挙制度改革は「必ずやります。私が嘘をつく顔に見えますか?」と発言した。我々は歓喜の声をあげた。

小選挙区比例代表並立制という選挙制度改革は、一度は総務会でも了承された。

ところが党内で反対論が再度展開され、通常国会での成立は見送る方向となり再度総務会が開かれることとなった。

我々は実力行使に出た。

総務会が開催され、会議室の前に人間のバリケードを作り総務を部屋に入れない作戦だ。

「総務は年寄りが多いから、もみ合っているうちに体力を消耗して引き上げるよ」と仲間の一人が言った。

ところがことはそう簡単には運ばない。

総務の先生方は一向に引き上げない。

それどころか、佐藤孝行総務会長を説得する役割だった仲間の一人は佐藤氏に「無礼者、それでも政治家か? 道を空けろ!」と言われて‥‥、「総務会長が通りです。道を空けて下さい」と腰砕けになる始末。

残念ながら我々のバリケードは敢え無く破られてしまった。

両議院総会の開催に必要な署名集めも‥‥、あらゆる手段(後で分かったことだが、不正な手も使ったらしい)を講じて過半数の署名も集めた。

宮沢邸まで押しかけて総理に決断を追ったことも‥‥、それでも活路は拓けない。

会期内の成立は絶望的になった。

そんな中ではあったが、新党結成の準備は様々な議論を続けていた。夏休みに合宿をし、基本理念や基本政策をとりまとめた上で9月に静かに旗上げをしようという計画だった。

平成5年(1993年)の通常国会は、会期末になって事態は急変した。

小沢氏のグループが野党の提出の内閣不信任案に賛成すると永田町に激震が走った。

政局は一気に解散総選挙へと急転した。

「計画を実行するべきか否か?」 我々は議論を重ねた。

誰にも迷いはなかったが、あまりにも急な事態の変化に準備が整ってなかった。

しかし自民党で選挙を戦って、済んだら新党を結成するというのでは有権者の理解は得られない。

「不信任可決と同時に離党をする」これが我々の結論だった。

残された3日間でできる限り準備をする‥‥、我々は毎日ホテルを変えて集まった。解散前日の深夜、目に一杯涙を浮かべ鈴木恒夫氏が部屋に入って来た。

「本当に申し訳ないけど一緒に行動できない」、鈴木氏が言った。

新自由クラブ以来の大恩人である河野洋平氏(当時官房長官)にだけは了承を取りにいったが、どうしても聞き入れてもらえないとのことだった。

「絶対に計画は漏れないから」と鈴木氏は言った。

私にもこの人だけには話しをしておかなければという先輩はいたが、「話すと相手に迷惑がかかる」との田中秀征氏の言葉で思い止った。

「秀征さんとの出逢い」

総理が代わったことで政治改革は仕切り直しとなった。

我々は再び行動を起こした。

若手議員の会では、国民運動を展開すべく「政治改革フォーラム」の名で各地でパネルディスカッションをスタートさせた。主に、仲間の地元で開催したが、高砂市文化会館でも開催した。

先輩議員の多くは選挙制度改革に反対だった。

既に安定した支援基盤を持ち財政的にも恵まれていたからだ。

制度が変わることで戦いが見えにくくなり、新たな対応が必要となるからだ。

そんな先輩の中で最も我々に理解があり政治改革に熱心だったのが羽田孜氏だ。

羽田さんは我々のバックボーンとして常に行動を共にして頂いた。

行きつけの蕎麦屋で夜遅くまで熱っぼく議論したことをなつかしく思う。

平成4年の年末、ユートピアのコアメンバーが忘年会で築地市場の中にあるすし屋の2階に集まった。

その席に同席していた田中秀征氏から「制度改革研究会」という一枚のペーパーが配られた。

日本の国のかたちを変える。そのためには政治主導で日本のあらゆる制度を改革しなければならない‥‥。

そんな主旨だったと記憶している。

私はショックを受けた。

以前から政と官とのあり方に疑問を感じていたが、田中氏の提案は見事に問題点を浮きぼりにしていたからだ。

制度改革研究会は、武村氏が代表幹事、田中秀征氏が事務局長に就任した。

超党派の議員勉強会であると同時に首長や民間人も参加した。

菅直人氏や仙石由人氏、細川護熙氏、小池百合子氏、宮内義彦氏(オリックス会長)など多士済々のメンバーが参加した。

私からお願いして貝原俊民氏(前兵庫県知事)にも参加して頂いた。

研究会のテーマは「国のかたち」、地方分権や規制改革について熱心な議論が行なわれ、当時の行政改革審議会の応援団となった。

既にこの頃から我々の新党結成の決意を固めつつあったが、制度改革研究会はカモフラージュの役割を果たしてくれた。

この研究会で存在感をみせた一人が仙石由人氏(当時社会党)である。

彼の鋭い議論は特筆すべきものがあった。

彼の発言の真意が理解できない時もあり、隣の園田博之氏に聞くと、園田氏も「俺も良く分からん」と言った時もあったくらいむずかしい話をしていたと記憶している。