「細川政権誕生の裏舞台」 平成5年夏その2

7月29日には連立政権樹立に関する合意事項に各党がサイン、いよいよ非自民・非共産の政治改革政権の準備が整った。

(新党さきがけ、日本新党、新生党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合、民主改革連合)

ところが政権のスタートの首班指名でハプニングが起きた。

首班指名は記名投票であり、衆議院事務局の職員が議員名を点呼することになっているが、名簿を一頁飛ばして読み上げてしまったのだ。

途中で気がついて慌て飛ばした頁を読み上げたが、野党になりかけていた自民党が了承しない。

結局、本会議は一度休憩し、首班指名はやり直しとなった。

休憩の間に国会内の細川さんと武村さんが居る控室に行くと、さきがけのメンバーはいたが日本新党側の姿が見えない。

そのときから、熊本藩主の末裔でもある細川氏を、我々は「殿」と呼ぶことにした。日本新党では創業者である細川さんは一段高い存在であり、近寄り難い存在だったのだ。

仕切り直しの首班指名が終わり、8月9日、7党1会派連立の細川内閣が発足した。

さきがけと日本新党は選挙前の約束どおり、院内統一会派を組むこととなる。

私の役割は院内幹事(国対委員長)と運営委員長。運営委員長の仕事とは、さきがけと日本新党の合併準備委員会の座長である。

日本新党は新人議員ばかりなので、統一会派の主要な役職はほとんどさきがけが占めることとなる。

政調会長 井手正一、代表幹事 園田博之、細川総理の元で官房長官 武村正義、官房副長官鳩山由紀夫、総理補佐官 田中秀征など…。

当時さきがけは15人、日本新党は38人だったと記憶しているが…、圧倒的に人数の多い日本新党にはポストの配分で不満が残った。

不満は細川さんではなく武村さんに向けられる。

結局、翌年4月の細川総理辞任により統一会派は解消されることとなるのだが…、運営委員長としての7ヵ月間は日本新党の不満で苦労の多い日々が続いた。