【非自民政権の樹立】 平成5年夏

平成5年7月18日、第40回衆議院総選挙の結果、新党さきがけ、新生党、日本新党の3党で100議席余りを獲得。

自民党の単独政権が不可能となったことにより、新しい政権の軸が、「自民」か「非自民」のどちらになるかに国民、マスコミの関心が集中した。13人の新党さきがけは怒涛の日々を過ごすことになった。

さきがけと日本新党(統一会派)以外は既に自民・非自民に色分けされており、我々がついた方が与党になる…。

我々には、野党という選択は残されてなかったということだ。

当面は野党としてじっくり力を貯えようと考えていたはずだったが、現実は我々に時間を与えてくれなかったのだ。

練習場にも行かないでいきなりゴルフコースに出なければならない。

それが新党さきがけの運命だった。

「自民党ではダメだ」と離党したのだから、自民と組んだのでは意味がない。

かといって非自民というだけで結集したとしても、何を目的にするのかはっきりしない。

そこで我々は自ら新しい政権が何をすべきかを提案することとした。

「政治改革政権の提唱」である。

田中秀征氏が起草した要点は次の通りだ。

①景気対策等の懸案が遅滞しているのは「政治改革」が進まないからだ。

②したがって、「政治改革」を早期に優先的に片づける政権をつくる。

③政治改革の具体案を示し、それに賛同する政党がこの政権をつくる。

④政権への参加は全党に呼びかけ、特別国会まで回答を待つ。

7月23日に細川・武村・田中、三氏による記者会見が行なわれた。

直後から私と井手正一さんが提言書を持って各党を廻った。

提言書は共産党を含む全ての政党に届けた。

新生党の本部では渡辺恒三氏(現民主党最高顧問)が対応されたが、提言書を見るなり読みもしないで「う~ん、良くできている。さすがさきがけだ。羽田党首が4階に居るので会ってくれ。」と言われ、我々は慌てて退散した。

羽田党首と井手さんは選挙区が同じで、親子2代に亘って選挙を戦ってきた関係にあったのだ。

私が知る限り政治改革政権の提唱について一番真摯に対応されたのは自民党だった。

一部修正はあったものの我々の提案を真正面から受け止めて苦悩し、ついにはそれに近い線まで歩み寄って党議決定までしたのだ。

(この党議決定が政治改革国会の最終局面に至って効果を発揮することとなる。)

自民党の回答を三塚博幹事長(当時)が、高輪の日本新党本部に持ってこられるとの連絡が入った。

ところが時間になって気がついてみると、武村さんも細川さんも田中さんも党本部に姿が見えない。

仕方がないので私と井手さんで対応したが、後々振り返れば、3人は意識的に姿を消されたのだと思う。

おそらくこの時点で既に細川氏を首班とする非自民の枠組は、決まっていたのではないかと私は思っている。

他党がいわゆる丸呑みであったとはいえ、自民党の回答もほぼ満足のできるものだった。

ただ、自民党政治を変えるという目的で離党した我々としては、非自民の選択をせざるを得なかったというのが真実であった。

この様な経緯を経て、我々は心ならずもまた与党になってしまった。しかも総理を擁する会派に…。