「初陣で」

昭和61年の7月。最初の熱い選挙を戦う中で、私の中に大きな変化が起きた。

振り返ると、それまでの私はとても奢った人間だったと思う。

自分の人生は、自分の力で切り拓くことができる。結果がでない時は、まだ自分の努力が足りないだけ…、努力さえすれば必ずことを成しとげられる…と考えていた節がある。

他人に助けを頼むのが嫌いで、助けてもらうくらいなら、できなくても良いと考えていた。

つまり自分の運命を左右するのは自分の意志のみ‥‥、人の手は借りないし神も仏もない、理に叶わない出来事もないと考えていたし、信仰心もなかった。

とにかく他人からアレコレ指図されることが大嫌いだった。

そんな私が選挙の候補者になるのだから大変だった。候補者が後援者からの指示に、逐一反論していたら選挙にならない。

聴衆に応じて、周囲の指示のとおり、従順に動く(演じる)のが良き候補者だ。

それができないと、「あんたのことを思うから言ってるのに、聞く耳を持たないなら勝手にしろ‥‥、もう応援はしない」となる。

それまで一滴も酒を飲まなかった私だが、「俺の酒が飲めないのか、酒も飲まずに選挙ができるか」と強要されることも‥度々。

何よりも身にしみて分かったのは、「投票行動は理屈だけでは決まらない」ということだ。

私がいかに正しいことを言ったとしても、有権者に嫌われたら投票してもらえない。私の運命(当落)を握っているのは、他人の意思であって、私の論理の正否ではないのだ。

それに気づいたとき、私は自分よがりの、思い上がった考えを転換せざるを得なかった。

自分の力が及ばないところで、自らの運命が左右されることもあると考えることで、宗教の存在や信仰心も何となく理解できる様になった。

戦前から平成の初めまで続いた中選挙区の時代。複数候補を擁立している自民党候補の敵は自民党候補だった。

同じ政党に所属しているのだから基本的に政策に大差はなく、戦いは有権者へのサービス合戦になりがちだった。

地域でお祭りなどのイベントがあると、お祝いにお酒やご祝儀を持って行く。

葬式には供花を届けて名前を露出するといった行為が横行していた。(今は公職選挙法が改正されて禁止されているが‥‥)選挙にお金がかかると言われる所以だ。

同じ政党の中で争うのだから、政党内の派閥が後ろ盾となり、選挙応援も派閥中心となる。

自ずと政党が掲げる政策は無用の品となった。

後に小選挙区制が導入された理由の一つにもなった中選挙区の弊害である。
(もっとも小選挙区になった今でも、事実上の派閥は残っているし、その意義が全否定されるものでもないのだが‥‥)

そんな訳で当時は自民党では自分党だと言われていた。

自らの選挙を通じて、自分党を維持できるのは、父の残してくれた大きな財産(いわゆる地盤と看板)のおかげだということを痛いほど感じた。

「渡海」という名前は日本全国探してもそれ程ない。しかも父が元三郎で私が紀三朗。挨拶廻りで名刺を出すだけで、相手は私が何者かわかってもらえる。

それだけ時間も節約できる。

東播磨の選挙区内には、「父親に世話になった」と言ってくださる方々が沢山いらっしゃる。

ただ、世話になったという人にも2種類あった。

一つは、婚姻や就職のお世話をはじめ、個人的に深い交わりがあり、父の人格に惚れ込んだという方々、もう一つは、公的な役職(悪く言えば利権)を通じて世話になったという方だ。

振り返ってみると、井上先生が強かった北播において、最後まで私の後援会に止まり、ご支援を頂いた方々は主に前者であった。公的な職務を通じて世話になったと言われる方は、地域の大勢が井上氏支持に傾けば自ずとその動きになびいた。(ただ、悔しいが、その行動を否定することはできない…)

父は地元中の地元である曽根町で、自らを称し、公然と「渡海は曽根のやっかい者」と言っていた。

選挙は多くの支持者に迷惑をかける大仕事だ。ご支持いただく方々の大変なお世話なくして、勝利はおぼつかない。

立候補の挨拶廻りをしているときに、農協の組合長に「渡海さん、あんた、初めはおやじさんの跡を継がないと言っていたそうじゃないか?」と言われて‥‥

「私は政治家には向いていないと思っていたし、それに親子2代続いて多くの人に迷惑をかけるのが嫌だった」と正直に話したら‥‥

「ええかっこするんやない。選挙は他人に迷惑をかけるもんや、もうオヤジさんに十分迷惑かけられとる。そやけど、あんたが一人前の政治家になったら、誰もこの選挙を迷惑やとは言わん。」と諭された。

本当に目からうろこが落ちる思いであった。

以来、私は選挙では地元の方々に思いっきり迷惑をかける。お世話になる。そして、親の七光りの幸せは、ありがたく頂戴する。その代わり、その支援には政治の仕事でしっかりと応えると考えることにした。

父の死から1年余り、立候補を表明してから10ヵ月後。私は昭和61年7月7日の衆参同日選挙で初当選を果たした。(翌日開票が待ち遠しく、8日午前の当選の報に本当に感涙した。)

バンザイをして涙を流して支援者の皆さんと喜び合って‥‥

でも喜びという至福の時が過ぎると私の心に残ったのは、支援の期待に応えなければならない責任の重圧と新しい生活に対する言いようのない不安感だった。

こうして私の衆議院議員としての第一歩が始まった。

もう後には戻れないのだ。

「政治家は過去を振り返ってはいけない。」

生前父親が言っていた言葉が身にしみた。