「運命の日、そして始まりの日」3

葬儀のお礼や自宅の整理で、慌ただしい日々を過ごしていた頃、高砂の後援会長であった籠谷幸夫氏(当時、高砂商工会議所会頭)に呼ばれた。

父の後を継いで欲しいとの要請だった。

籠谷氏から言われた。

「紀三朗君、わしらはこれまで地域発展のために努力して来た。そのために代表として君の親父を支え国へ送り出して来た。親父さんも頑張ったけど、わしらも頑張った。親父が出世したのは親父が偉かったこともあるが、半分は支えて来た皆の努力だ。その努力を無駄にしないで欲しい。」

「何故私なんですか?」と私。

「選挙に勝つには渡海の名前が必要だ」と籠谷氏、

そんなやり取りが続いて、最後に籠谷氏が

「わしも市議会議員をやっていたから選挙での家族の苦労は痛い程分かる。だから君に強要はしない。ただ、くり返し言っとくが、(君が立たないと、)これまでの親父さんの支持者の積み上げた努力が無駄になることだけは考えてくれ」

「その上で、君の人生をどうするかは君が決めたらいい」と締められた。

ちょうど同時期、当時勤めていた日建設計の社長から社長室に来いと呼び出された。

当時の社長は、日建設計の発展を支えた最大の功労者の一人で、一社員の私には雲の上の存在であった。

その社長からいきなり社長室に呼ばれたのだから一大事であり、その時の会話は今も鮮明に覚えている。

「塩川が渡海はんの息子が跡を継がないと言うので、ひとつあんた(社長)から口説いて欲しいと言われた」と社長。

「ちょっと待って下さい、私は会社で役に立ってないと言うことですか?会社に必要ない人間なのですか?」と私。

それに対し「君が役に立ってないとは言わないが我が社は大会社だ。君一人居なくなっても大きな影響はない」と‥‥。

「まだやり残した仕事もあるし、家族だって心配している」と私。

最後に社長は、「負けたら又、会社に戻ってきたら良い。自分の人生も大事だが、世のため人のために仕事をすることも一つの人生の選択だ」と‥‥

その後、塩川正十郎先生から東京に出て来いと呼び出された。

「運命の日、そして始まりの日」 2

昭和60年5月2日、かねてより療養中であった父・渡海元三郎が逝去した。満70歳、当時の男性の平均年齢が74.8歳であったから少々短い人生だったと言えるのかも知れない。

以後私の人生は急変する事になった。

私はそれまでほとんど父の後継者となる事は考えてなかった。

政治に関心がなかったからではない。選挙が嫌いだったからだ。

人に頭を下げる事も嫌いだったし、他人に借りをつくる事も大嫌いだった。

長い間政治家としての父の生活を見ててこんな人生は送りたくないと考えていたからだ。

父が亡くなる9年前、私が28歳の時に母が急逝をし、その思いは一層深くなっていた。

選挙区を守り抜いて来た母は、永年の心労から肝硬変を煩い食道間脈粒破裂による大量出血により若くして壮絶な死を遂げた。

だから私は父の死が近いと医者に告げられ、後援会幹部に報告した時に、跡は継がないと自分の意志を告げた。その事が後で混乱の原因となったのだが‥‥。

大物政治家(息子の私が言うのはおかしいが)の葬儀は大変だ。

自宅での密葬、高砂市民葬、東京での自民党による葬儀と3回の葬儀に追われた。

東京での葬儀が終わった後、私は葬儀委員長の福田赴夫元総理の自宅にお礼に伺った。

「君はお父さんの跡を継がないと言っているそうだが?」と元総理に言われ、

「私は政治については何も分からない ~ 国家予算についても何も知らない、そんな私が政治をやってもいいのですか? 有権者に失礼では?」と私

「渡海君、予算なんか半年も勉強すればすぐ分かる。政治をやるのに大切なのは国家と国民に尽くす気があるかどうかだ」と福田総理が

「でも何故私なんですか、他に適当な人がいると思いますが」と私、(事実その時既に手を上げてる人が3人いた)

「うんそうだな、まぁ派閥の都合もあるしな‥‥ワハハ」と元総理

そんなやりとりがあったが、それでも私は丁重にお断りした。

「運命の日、そして始まりの日」

2009年8月30日午後8時、投票が締め切られた
テレビでは直ぐに対立候補に「当確」が
しかし開票が終わらなければ最後まで分からない!
そして
結果は
92032票 対 132231票
完全な負け戦である。
比例復活さえ叶わなかった。。。。。。。

総選挙では一週間前の土日に最終の世論調査が行なわれる。

昨年8月末にその結果を入手した私は愕然とした。10~20ポイントと多少の違いはあるが、各社とも相手候補にリードされている。

きびしい戦いであると予想はしていたが、これ程大差だとは思ってなかった。

2市2町とも負けているのだが、高砂でも大差でリードされているのがショックだった。

しかしその事実を嘆いていても仕方がない。

残された6日間に全力を尽くす事で局面を打開する以外にはない。

戦いはまだ続いているのだ。

選対幹部の皆さんに世論調査の結果を告げ、あらゆる対策を打って頂いた。

早朝の駅立ちから選挙カーでの街宣活動、企業訪問、夜の決起大会と、全力で走り抜けた。

投票日直前の加古川・高砂の大集会や加古川駅前広場での打ち上げも大変な盛りあがりだった。

私の実感としてはかなり追い込んだつもりだし、メディアも追い込んでると伝えてくれた。

でも届かなかった。比例復活さえ叶わなかった。

完全な負け戦である。

敗戦が確実になって、選挙事務所で支持者の皆さんにお礼とお詫びの挨拶をした時、私はただ「やるべき事はやりました。皆様にもやれる事は全てやっていただきました。今はこの審判を厳粛に受け止めたいと思います。」と言った。

翌日から私は選挙のお礼に廻った。

多くの方々から「負けたのは貴方のせいじゃない、逆風のせいだよ」と言われたが、たとえ強い逆風であったとしても、戦う以上勝利しなければならない。

負けたのは私が弱かったからだと私は考えた。

一巡のお礼を済ましてから、今後の方針を聞かれて私は少し現場を離れて考えたいと後援会幹部にお願いし日常の政治活動を停止した。

選挙の反省やこれからの自分の人生‥‥、様々な思いが私の心の中にあったが

時間が与えられたこの機会に、私の政治人生を振り返る事にした。

あれから30年

過日、全国紙の夕刊一面の囲み記事でビートルズの「ジョン・レノン没後30年」という文字が目にとまった。
1980年(昭和55年)12月8日、ジョン・レノンはニューヨークの自宅前で射殺されたのだ。

私たち70年安保世代(団塊世代とも言う…)の青春は、ビートルズ一色に染まっていた。多くの友人もそうだったが、新しい曲が発売される度にレコード(今は無きブラックディスク)を買い求め、聴き入ったものだ。

そのビートルズが初来日した1970年は、私が早稲田大學に進学した年。苦労してチケットを入手し、日本武道館のコンサートに駆けつけた。わずか30分と言う短いステージだったが、聴衆の興奮のるつぼの中で歌っていたジョン・レノンの姿は、今も鮮明に脳裏に焼きついている。

我々団塊世代の青春のシンボルが失われた1980年。
その年は、様々な意味で世界のパラダイム転換が始まった時期だったのかもしれない。

前年に始まったソ連のアフガニスタン侵攻は、世界中の猛反発を招き、80年のモスクワオリンピックの大量ボイコットに繋がった。以来、社会主義の斜陽が始まり、共産主義国が次々と市場経済の道を選択し、89年にはベルリンの壁が撤去され91年にソ連が崩壊する。未だに、マルクス・レーニン主義を唱える化石のような共産党は、日本共産党のみ(?)かもしれない。

日本の自動車生産台数が1000万台を突破し、アメリカを抜いたのも80年。我が国の経済社会は高度成長を成し遂げ、正に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(79年に創刊されたボーゲル博士の著書)の時代を謳歌していた。そして、数年後から始まる虚像のバブル経済期を経て、今日に至る。残念ながら、未だに内需型経済構造への転換は成し遂げられていない。

ソニーの初代ウォークマンが大ブレイクしたのもこの頃(79年発売)。今では当たり前のことだが、音楽を体の一部にしたのがこの装置だ。ヘッドフォン・スタイルで歩きながら音楽を楽しむ姿が、一種のファッションとなった。(ただし、コンテンツはカセットテープなので、今思えばとてつもなく巨大…。)ただ残念ながら、この後、アイ・フォンをはじめ、この種の機器で世界を席巻する電化製品は米国発となっているような気がする。

ついでにもう一つ、今から30年前の初夏、私、渡海紀三朗の人生を大きく変える事件が起こった。
一般消費税導入を掲げた前年の総選挙で一敗地にまみえた大平内閣に対し、社会党が内閣不信任案を提出。これに自民党の反主流派が同調し、5月16日、不信任案が可決された。

衆議院は二年連続の解散となり、6月22日を投票日に初の衆参同時選挙が実施された。
父・元三郎は入院中(前年の多忙な建設大臣業務と過酷な選挙応援による過労のため。)で、私が父に代わってマイクを握り、代理選挙を戦うことになったのである。

それまでの選挙では、裏方に徹していた私。当然ながら、選挙区であまり知られる存在ではなかった。しかしこの25日間で多くの支援者に面が割れた。
そしてこのことが、政治家・渡海紀三朗の原型を創ったとも言える。この代理選がなかったら、父の死後、私の出馬要請もなかったと思うからだ。

30年前の1980年は、私にとってそんな人生の節目の年だったのだ。
昨年の総選挙から1年と3か月余り、もう充電は十分だ。30年前の初心を忘れず、臨戦態勢で冬本番を迎えたい。

大連立

先週金曜日、臨時国会が閉幕した。
補正予算は成立したものの、政府提出法案37本のうち成立したのは14本。38%という成立率は過去10年間で最低だ。中身を見ても、成立したのは予算関連と事務処理的な法律ばかりで、郵政改革や地域主権など政策論を争う法案は、まともな審議すらなされなかった。

このような有様にも関わらず、会期の延長を主張したのは国民新党だけだった。本来ならば政府与党は会期延長をしてでも提出法案の成立に努力するのが当然だ。
「野党が審議拒否をしている以上、会期を延長しても意味がない」と岡田幹事長は言うが、審議拒否のタネをまいたのは民主党であり、参議院で問責された仙谷・馬淵両大臣が関係する法案以外は審議可能だったのではないか。

会期末になって菅総理の就任以来、初めての党首討論の実施が俎上にあがったが、結局、両大臣の出欠問題でこじれ、実現しなかった。
会見で総理は「私としてはやりたかった」と最近ではめずらしい笑顔で答えておられたが、いかにも白々しい。本当に「やりたかった」のなら、両大臣を欠席させてでも開催すれば良かったのではないか。あの笑顔は残念と言うよりも喜んでいるとしか見えない。

野党も両大臣の出席拒否に固執する必要があったのだろうか?両大臣が出席したとしてもどうせ座っているだけで答弁はしない。むしろ論戦の場に居てくれた方が、メディアに大写しに撮影され、責任を追及しやすい。
せっかくの好機、政府の無策を追求し、我が党の政策をアピールする機会をみすみす放棄してしまったような気がする。

政策そっちのけで、政権争いの駆け引きだけが目立つ永田町の現状に、国民もうんざりしていると考えるべきだ。
政治と国民の距離が又遠くなるのではと気がかりだ。

年明けの通常国会こそ、熟議を期待したいところだが、現状からは何の展望も開けてこない。それどころか民主党内の不協和音も聞こえ、予算編成、税制改正の政府原案が年内に策定できるのかどうかさえ疑わしい。またしても空転必至の国対が待っているのか…。

ところで一部のメディアで大連立の話が提唱されている。
経済・財政・外交安全保障など、今の日本に山積する課題を解決するために残された時間はほとんどない。だとすれば、この際政治は与野党の垣根を越え大道団結して国難に当るべきだという主張だ。

私はこの意見に賛意を表したい。

そもそも政治の目的は、国家と国民の幸せにある。
かねてからから主張しているとおり、安定した社会保障制度の再構築やその安定財源としての税制改革(消費税率引き上げ)・外交安全保障などは、長期安定の制度、政策設計が必要だ。政権交代の度に方向転回するべきものではなく、それ故に制度制定までに超党派の議論が必要なのだ。

もっとも福田内閣時の大連立構想崩壊を見ても、現行の衆議院小選挙制度の下では、二大政党の大連立は非常に困難だろう。しかし、せめて超党派の協議会は設置すべきではないか。
(再起を期して頑張っている私にとって、選挙が遠のく要因になる与野党接近は、悩ましい話ではあるのは事実だが‥‥。)

今の様な政治情況が長引けば長引く程、日本の政治は益々混乱し、この国は確実に劣化する。
日本の未来を拓くためには、多少解散が遠のこうとも、長期安定の政策方針を早期に決するべきだ。