昭和61年の冬、心の準備もなかった私の初陣のキャッチフレーズは「38才頑張ります」(最初のポスターは「37才頑張ります」だったと思うが)、もう一つの「はりま燃ゆ」は故中川昭一先生の「道東燃ゆ」のパクリだった。
公約は「清く正しい政治との父の政治姿勢を守る」「全力を尽くす」の2つだけ‥‥、今から考えるといささか恥ずかしい。
以前の仕事のフォローもあり、私は「敗けたら帰って来たらいい」との社長の言葉に甘え、日建設計に在席のまま実質的な選挙戦をスタートさせた。
「やることをやるだけ‥‥、勝ち負けは結果でしかない。負けたら、また、元の生活に戻れば良いのだから負けることは恐くない。」当初はそんな気持だった。
しかし現実は甘くはなかった。
私のために多くの方々が労力と時間と経済的支援を提供して頂いている。
その支援に応えるためには勝つしかない。
私は自分の中にあった甘えの気持を払拭するために会社に辞表を出した。
実は、私は昭和55年に一度、最前線で選挙を体験したことがあった。
とは言っても、病床にあって選挙区に帰れない父の代理としてである。父と私は骨格が良く似ている。当時の新聞紙上では影武者と書かれたりもした。
だが、自らが本物の候補者になってみると、私は父の代理選挙と自分自身の選挙が全く違うことに気づいた。
父の代理であった私は、世間から被害者として見られていた。
だから寝不足で目の下に隈があっても「お父さんのために可哀想に」となる。
自分が候補者になると同じ目の下の隈が「元気がない ~ 体調は大丈夫か?」となる。
それに私が選挙をすることで、多くの人々にお手伝いをいただくことになるのだから「貴方のためにやっているのに、貴方が選挙をしなければ私は楽できるのに~」となり、ある意味で私は加害者となる。
同じ選挙運動でも、候補者本人と代理では世間の見方は正反対だ。
立候補表明の後まず問題となったのは、父の病気報告の時に言った「私は跡を継ぎません」との言葉だった。
一部の人に非公式に伝えただけとは言え、一度やらないと言ったのが、やることになったのだから弁解の余地はない。
父が大変お世話になった方に「嘘つき」と言われたことが、今でも心の中に微かな罪悪感として残っている。
結局最後まで、党内の候補者調整はつかず、自民党は当選者3人の選挙区に、私と井上喜一氏の二人を公認することになった。相手は、社会党、公明党、民社党の現職。激しい戦いの結果、61年夏の選挙は、自民党は二人とも当選を果たすことができた。
父一人でも落選した58年の選挙から、二人で12万票以上積み上げたことになる。
今回の参議院選挙で、民主党の小沢前幹事長が複数区に二人以上の候補を擁立し、党勢の拡大を図ると言っていたが、私と井上氏の初陣を見る限りこの戦法は正しいと言える。