あれから30年

“新党さきがけ”結党時の代表で、細川護熙内閣の官房長官や村山富市内閣の大蔵大臣などを歴任された武村正義先 生が、昨年9月28日に逝去された。報道で流れたのは10月1日で、葬儀はすでに近親者のみで執り行われたとのことだった。

昨年末には、先生のふるさと滋賀県で「お別れの会」が開催されたのだが、多くの方々から東京でも弔意を表す機会をとの声が寄せられた。これを受けて私と枝野幸男衆議院議員、前原誠司衆議院議員が呼びかけ人となり、2月15日に「武村正義先生お別れの会」を開催することになった。会場となった霞山会館は国会議事堂や霞が関の官庁街が眼下に広がる37階に位置し、国事に奔走された先生ゆかりのロケーションであった。

当日は、武村さんと親交があった与野党の政治家や、新党さきがけ結成時からの事務所スタッフ、担当記者など、80人余もの方々に参加いただき、故人をしのび会場は大いに盛り上がった。呼びかけ人としての立礼の際には、多くの方々から「開催していただいて、ありがとう」とか、「連絡していただいて、ありがとう」との感謝の言葉をいただいた。やって良かったと改めて実感した。

私が武村さんと初めてお会いしたのは、1986年の衆議院選挙で初当選した直後のこと。当時所属していた清和会(安倍晋太郎会長、現:清和政策研究会)の議員総会で、新人会員として紹介を受けた時だった。

滋賀県知事として、琵琶湖の赤潮問題で水質汚染を防ぐために日本初の合成洗剤追放条例(琵琶湖条例)や、風景条例などの環境保全条例を制定するなど、実績、知名度ともに高かった武村さんは、当選同期の中でもリーダー的存在だった。

それから2年後の1988年、リクルート事件が発覚した。当時の派閥の会長をはじめ与野党の多くの政治家や官僚、経済人、マスコミ関係者などを巻き込んだ特大クラスの疑獄事件に発展した。

国民の政治不信が広がるなか、武村さんの呼びかけで当選一回の有志により、「政治とカネ」「どうすれば汚職がない政治が実現できるのか」といった政治改革の勉強会が結成された。 “ユートピア政治研究会”である。これが、後に“新党ささきがけ”へと発展していくことになる。

その“新党さきがけ”誕生(1993年6月21日)から、早や30年が経過しようとしている。

お別れの会では、再会を果たした仲間たちが、満面の笑みを湛えられた武村さんの写真に献花し、和やかに思い出を語り合った。

さきがけ結党時の記者会見を取材した担当記者は、「みんな最高の笑顔をしていた」と、その時の印象を披露された。そんなエピソードを聞きながら、様々な出来事が私の中でフラッシュバックしていた。

30年の歳月を経て、政治は我々が目指した方向に進展したのであろうか?

最近の世論調査では無党派層が増加しつつある。支持政党なしが58.4%との数字さえある。これは政治に関する国民の関心(期待?)が著しく低下していることを示す指標ではないだろうか。国民の間で政治不信が広がっていると言う点では、30年前と状況が似ているとも言える。

武村さんなら、今の政治状況をどのように捉え、どんな行動をするのだろう?

30年前の初心に帰って、いま一度政治の信頼回復に汗をかかなければならない。そんな思いを新たにした。