大震災から1年

1万9千余の命を飲み込んだ東日本大震災から1年が過ぎ、各地で追悼行事が行われた。改めて犠牲者のご冥福と被災地の一日も早い復興を祈りたい。
被災地からの報道番組を見るにつけ、復旧復興は遅々として進んでいないという感を強くした。福島第一原発周辺地域に至っては未だに発災状況にあるとも言える。戻るべき土地を定められない被災者の悲壮な叫びは、遅れと言うよりも停滞を訴えているのではないだろうか。

確かに本格的な復興予算が編成されたのは昨年11月、そして復興庁が設置され、復興交付金の手続きが始まったのはこの2月。それぞれ被災から8ヶ月、11ヶ月もの月日が経過した後のことだ。
この遅れの最大の原因は、時の菅総理が大震災を政争の具としてしまった点にある。まずは、災害対策予算と当初予算を抱き合わせにし、野党に丸呑み大連立を迫り、後には「(災害復旧に)一定の目処がつくまでやめない」とう詭弁を盾に退陣を拒んだ。これらの行為により徒過した日時に対する責任は重いと言わざるを得ない。

しかし、今さら過ぎ去ったことを責めても仕方がない。我々は将来に向かって、大震災から何を学び何を成すべきか。

第一には、言うまでもなく被災地の早期復興を成し遂げることである。
カギを握るのは産業の再生と安全なまちづくり、そしてその障害となっているがれきの撤去だ。
復興を加速するはずの包括交付金の評判がすこぶる悪い。国の査定が厳しく自由に使えないとのことだ。阪神・淡路大震災の際には総額9000億円の基金を地方に積立て、その運用益を活用する形で迅速柔軟にきめ細かい支援策を講じることで対応した。
今回の解決策は思い切った権限の移譲と規制緩和だろう。政府は復興庁まで設けたのだから、権限を徹底的に現地事務所と地方自治体に任せることだ。

もう一つ、山のごとく積み上がった廃棄物の処理には野田総理の提言のとおり全国の協力が不可欠となる。避災地からがれきの姿が消えない限り、復興の姿は見えてこない。
国が前面に出て全国自治体に呼びかけ、早急にがれき処理を進めなくてはならない。

第二に、政府の危機管理体制の再構築と強靱な国土構造への改造が必要だ。
発災当初、首相官邸に集まった数百名の各省庁の官僚は、誰に指揮監督権限があるかも定かでないまま無為に時を費やしていた。
誤った政治主導が混乱を助長したとも言えるが、省庁間の横断調整の手法、少なくとも、自衛隊、警察、地方自治体(消防)の連携方法と役割分担は日頃から確立しておく必要がある。

さらには、国土構造の改編も必要だ。大震災当日の数多くの帰宅難民の発生は、過度に機能が集中した首都東京の脆弱性を証明した。関東を直撃する災害を想定すると、いつでもその機能を代替できる都市が複数存在する複眼的国土構造を構築することが望ましい。

第三には、未来に引き継ぐ「災害文化」の確立だ。
台風による水害は毎年のように襲ってくる。しかし、百年千年に一度の大地震の経験は、二世代三世代と時が経過するとともに実感が失われてしまう。
さらに科学技術の進歩が自然に対するおごりを招いた。防潮堤や防波堤があれば津波を防ぐことができるという過信が生じていたのではないだろうか。明治や昭和の大津波にもか
かわらず、海辺の平地にまちを再興してきた三陸の歴史がそれを証明している。

我々は、今回の災禍を契機に、自然に対する畏敬の念を“文化”として確立しなくてはならない。人類は大自然の中で生きている小さな存在であると言うことを心に刻み、子々孫々に受け継ぎ、世界に発信して行かなくてはならない。

有史以来、日本は何度も何度も大震災に襲われてきた。その度に我々の祖先は苦難を乗り越え、復興を果たしてきた。だからこそ我々が存在し、今日の日本がある。
そして、これからも大災害は日本を襲うだろう。地震だけではない、台風も、噴火も…。。しかし、その都度たくましい復興を支えるのが我々日本人に受け継がれた遺伝子“絆”だ。
今回の被災地“東北”も必ず復興する。この一年間の苦難の日々を通じて、日本一強い“絆”の存在が確認されているのだから。