解散の本会議が終わってTV局へ集合することになっていたが、役所の私の部屋で幹部が私が帰るまで待っているとの連絡を受けた。
約30人が温かく迎えてくれたのは本当に嬉しかった。
大きな拍手に送られて、集合場所となっていた都内のマンションへ向かった。
深夜になって田中秀征氏に朝日新聞の記者から連絡が入った。
「我々が離党したので、小沢グループも離党せざるを得なくなった」とのことだった。
小沢氏や羽田氏がどう考えていたのかは知らないが、少なくともメンバーの多くは離党を決意して不信任案に賛成したのではないことだけは記しておきたい。
武村氏は我々の新党が小沢グループの新党で霞んでしまうといささか焦っていたが、私は違うと思った。
自民党はそれ程甘くない。
これで自民党の敵は小沢グループとなり、弱小政党のさきがけは自民党からの風圧を正面から受けることなく戦える。この方が戦い易いと私は思ったのだ。
事実我々は自民党からの圧力をそれ程受けることなく戦いを展開できた。
解散の次の日、私は地元に帰り待っていた約450名の支持者に自分の思いを伝えた。
帰りの新幹線の中で私の中にまだ一抹の不安が残っていた。
兵庫3区では昭和51年に小林正巳氏が新自由クラブの旗揚げに参加してその後落選、引退した経緯がある。
小林氏も私も世襲議員だ。
支持者の皆さんは私に小林氏の影を見るのではないのだろうか? そんな不安だ。
しかし誰一人異論は出なかった。
それどころか、話が終わった瞬間にわれんばかりの拍手が起こった。
高砂市の自民党支部では全員が離党し、自民党高砂支部は消滅した。
月曜日、いよいよ新党の旗揚げの日だ。
朝からメンバー全員が集まり午後の記者会見に向け最後の意見交換をした。
田中秀征氏が週末に素晴らしい立党宣言を書き上げていた。
当所新党名は新生党(小沢氏のグループが立ち上げた新党名も新生党)となっていたが、岩屋・簗瀬両氏が合流して、「そんな古くさい名前はだめだ。改革の先頭を切るのだから『さきがけ』がいい」と提案し、誰一人異論なく「さきがけ」と決まった。
「魁」や「先駆」なども案としてはあったが、ひらがなの方が柔らかい感じがするとの提案もあり、響きが良いとのことで新党を前にして「新党さきがけ」とした。
ロゴマークは簗瀬氏の友人がデザインした「魁」を柔らかく表現したものだった。
ロゴをプリントしたTシャツを販売して買って貰ったが、飛ぶように売れた。
選挙が終わっても「魁」のTシャツを着たお年寄りがゲートボールを楽しんでいる姿をあちこちで目にした。
嬉しかった。
新党ブームの追い風が吹いたこの選挙では思った以上に得票が増えた。
当初我々は5年がかりで2大政党を創ろうと考えていたので、しばらくは野党暮しと覚悟していたのだが‥‥
事態は予想していなかった展開へと進んで行く。
細川連立政権の樹立だ。
仕かけ人は小沢一郎氏だった。