知・徳・体

スポーツの秋だ。各地で世代間交流の運動会が開かれている。

そういえば会場となっている学校の校門辺りには校訓とともに、「知育」「徳育」「体育」の三語が刻まれた碑が佇んでいることも多い。

本来、三大教育目標のはずが、今や三つの心配の種のようにも感じられる。

まず「知育」。子どもたちの学力低下が問題視され始めてから久しい。詰め込み教育が良いとは言わないが、ゲームやメールに興じる子どもたちを見るにつけ、どんどん宿題を与えた方が良いのでは‥‥と、思ったりもする。競争や順位付けも必要なのだろう。

次に「体育」。これも深刻な問題だ。子どもたちが運動会の練習中にバタバタ倒れるらしい。夏休み中、冷房の効いた部屋で過ごし、いきなり屋外の熱気の中で練習するのだからやむを得ないと言うべきか? 否、本来こどもは真っ黒になって夏の野や浜を駆け回るべきだろう。

最後に「徳育」。実はこれがもっとも難問だ。一昔前までは道徳は学校で教わることではなく、両親・祖父母・兄姉の立ち居振る舞いから学ぶものであった。

しかし核家族化や少子化、女性の社会進出により、家庭の教育力は著しく低下している。

その分学校に頼らなければならなくなった点に道徳教育の深刻さがにじみ出る。

残念ながら道徳教育の現場はまだまだ試行錯誤の域にある。(元教育所管大臣としての反省も込めて)

家庭と学校に加えて、かつては地域社会も教育力を備えていた。いわゆるお節介なおじさんおばさんたちが、近隣の子どもたちを叱り、仕付けていった。時代の流れとともに地域コミュニティの親近感も退化し、教育力も低下している。

しかし私は、団塊の世代がそろそろリタイヤする歳になったことで、地域が変化するのではないかと密かに期待している。

職域中心に生きてきた団塊世代が地域に帰るとき、地域のリーダーとしてデビューするとき、新しいむら、まちがうごめき始めるのではないだろうか。

その中には地域の教育力を高めるのに役立つ仕事もある筈だ。

団塊世代は、地縁の絆で結ばれた古き良き時代をかろうじて知っている。

輸入品を舶来と呼びあこがれた時代を知っている。欧米モデルの生活に追いつき追い越せと競争社会を走り抜けてきた。

団塊世代にはこれまで時代を動かしてきたという自負がある。これからもそうありたい。

学園紛争に注いだ若き日のあの情熱を、もう一度地域社会の為に役立てようではないか。