格別の配慮

沖縄の本土復帰50年にあたる5月15日、天皇皇后両陛下のご臨席の下、政府と沖縄県の共同主催による記念式典が宜野湾市と東京都港区の2つの会場をオンラインで結んで開催された。私も国家基本政策委員会委員長として出席した。

戦後27年間、アメリカの占領下にあった沖縄が本土に復帰したのは、1972年5月15日のこと。復帰に先立つ1965年年8月19日、現職の首相として初めて米国統治下にあった沖縄を訪問した佐藤栄作氏は、「沖縄の祖国復帰が実現せずには、わが国の戦後は終わらない」と述べ、沖縄返還に強い意欲を表明した。

私が初めて沖縄の土を踏んだのは今から約20年前。先輩議員に誘われ、世界初の海水による揚水発電所「沖縄やんばる海水揚水発電所」を視察した際のことだ。

国政に参画して以来、「一度は沖縄戦の戦跡をこの目で見なければ」と考えていたので、視察と併せて“平和の礎(いしじ)”や“ひめゆりの塔”など数か所の戦跡を訪れた。その中でも最も印象に残ったのは旧海軍司令部壕だ。

この壕は、日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部のあった所で、その一部が現在公開されている。約4000名の将兵が壮絶な最期を遂げた壕内は、司令官室、作戦室などが当時のまま残され、戦争の悲惨さ残酷さを訴え、平和を願う場所となっている。

大田実海軍司令官の※「糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ 賜ランコトヲ」と云う大本営に宛てた最終電は、自決直前にこの海軍壕の指令室で書かれたという。日本で唯一、地上戦に住民が巻き込まれてしまった沖縄戦。当時この電文を見て胸に期するものがあったと記憶している。以来、沖縄問題に関わる機会も少なく、思い出すこともなかったのだが…。

その後、文部科学大臣就任直後に教科書検定問題で沖縄に深く関わることになり、海軍壕の記憶も自ずと蘇ることになった。08年度から使われる高校教科書の検定で、「沖縄戦を巡る住民の集団自決に旧日本軍が関与した」という記述の修正を求める意見が付き、担当大臣として対応を求められたのだ。

軍の関与の有無について見解が真っ二つにわかれ、沖縄県民による大規模な抗議集会が開かれたのが就任直後。その約3ケ月間は予算委員会や文科委員会の答弁や記者会見で対応に追われた。当時、文科省は建て替えのため丸の内の仮庁舎に移転していたが、ビルの前では毎日のように様に激しいデモが行われていた。

最終的には「学説が軍命令の有無よりも集団自決に至った精神状態に着目して論じたものが多い」とし、「軍の直接的な命令は確認できないとしながらも、集団自決の背景には当時の教育や訓練があり、集団自決が起きた状況をつくり出した」との検定意見がつけられた。そして、各出版社が軍の強制に触れない形に自主的に修正することで決着した。

復帰50年記念式典の一週間後、22日(日)には、世界レベルの研究拠点の形成を推進するOIST(沖縄科学技術大学院大学)設立10周年記念式典に出席した。

観光業と建設業以外にこれといった経済資源がないと言われる沖縄だが、OIST発のスタートアップ企業が大きく羽ばたき、地域振興の一翼を担うことができれば、少しは「格別の配慮」に貢献できるかもしれない。東ヨーロッパの戦場の市民生活にも思いをはせつつ、そういう思いを新たにした今回の沖縄訪問であった。

 

※「沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように」