北の湖逝く

20日夜、8時過ぎに地元での会合が終え迎えの車に乗った時、支援者の一人から携帯に電話が入り、日本相撲協会理事長・元横綱北の湖氏の訃報を聴いた。「渡海さんの大臣時代に浅からぬ関係があったと思ったので連絡した」と。

平成19年9月26日に福田康夫内閣が発足し、初入閣した私の文科相としての初仕事が北の湖理事長との面会であった。就任直後の29日、その年の7月に某部屋の親方や兄弟子による集団リンチで序の口の取的を死亡させた事件を受けて、理事長は監督官庁である文科省に説明と謝罪に訪れたのだった。

TVニュースで流れた映像では、理事長が反っくり返り、事情聴取のために呼びつけた私の方が頭を下げて謝っているかのようで、同僚や支持者から「大臣らしく、もっと毅然と対応しろ!」と、随分お叱りを受けた。国技と言われる日本相撲協会の最高責任者を呼び出したのだから、私としては丁寧に対応しなければと思っただけなのだが。

写真に撮られた理事長の傲岸不遜とも言える姿勢をスポーツ紙などは批判したが、お腹がつかえてあれ以上頭が下がらなかったのが真相だ。理事長は私の頭の上で、「この度は申し訳ございませんでした」と、何度も繰り返し謝罪しておられた。

立会いのかち上げから、素早く右上手を引いての豪快な投げや一気の寄りが代表的な取り口で、巨体に似合わない俊敏な巻き替えのうまさも定評があった。そのスピード出世は目を見張るものがあり、横綱昇進時21歳2ヶ月の最年少記録は今も破られていない。

優勝回数は24回、幕内での50場所連続勝ち越し、37場所連続2桁勝利。そして年間通算82勝は平成17年に朝青龍に超えられるまで27年間最高記録だった。

大鵬、千代の富士ともに戦後の昭和を代表する大横綱である。

横綱は抜群の強さの反面、バタバタ相撲もあったのだが、毎場所優勝争いに加わり第一人者としての重責を果たしている。そのふてぶてしい風貌と取り口から「憎らしいほど強い」と言われた北の湖関、強すぎた横綱ゆえに人気が伴わなかったかもしれないが、子供の嫌いなものの代名詞として「江川、ピーマン、北の湖」などと揶揄されたのはいただけない。

余談ではあるが、北の湖を見出したのは姫路市出身(当時は印南郡)の三保ヶ関親方(元大関増位山、戦後直後に在位)である。三保ヶ関親方は子息の増位山や北天佑を育てるとともに、ふるさと東播磨ゆかりの力士、大竜川や闘龍を育てた名親方である。

昭和60年(1985年)1月場所の引退後は、角界への絶大なる貢献に対して一代年寄「北の湖」を贈られ部屋を創設し、巌雄など14人の力士を育てた。そして、平成14年には第9代理事長に就任、平成20年、自らの部屋の力士による大麻使用事件の責任を取り一度は理事長を退任されたが、24年に異例の再登板を果たし、土俵の充実とファンサービスを掲げて人気が低迷する大相撲の改革に取り組んだ結果 “満員御礼”が続き、相撲人気復活まであと一息のところまで持ち直してきている。

今場所10日目の17日、栃煌山に繰り出した横綱白鵬の“猫だまし”を見て、理事長が「横綱の相撲ではない」と苦言を呈しているとニュースで報道され、お元気で活躍されていると思っていただけに、この度の訃報には驚いた。

生前の功績を称え、心よりご冥福をお祈りしたい。