塩爺逝く

去る9月19日、「塩爺(しおじい)」の愛称で親しまれた元財務大臣、塩川正十郎先生が、93年と11か月の人生を終えられた。24日の告別式には、小泉元総理をはじめ政財界から2000名もの方々が参列され、故人の功績を称え、冥福を祈った。

 

私は、23日の通夜に伺い、恩師とのお別れをさせていただいたが、御霊前の朗らかな遺影を前に30年前の光景が脳裏によみがえった。この方の行動がなかったら私が政治の道を歩むことはなかったのだった。

 

父・元三郎は昭和58年(1983)、11回目の衆議院議員選挙で初めて敗戦を喫し、二年後の60年5月、捲土重来の思いを抱いたまま他界した。その直後から、父の支持者から私に対して、次期総選挙への出馬、東播磨の保守の議席奪還を求める声が数多く寄せられた。父が師事していた福田赳夫元総理など、今思えば錚々たる方々からもお声がけをいただいた。しかし、当時の私には政治の道に進む意思は全くなかった。

 

その気持ちを動かしたのは、当時勤務していた日建設計の社長の言葉。「お世話になったお父さんの支持者の期待に応え、世のため人のために仕事をすることも一つの人生の選択だ。我が社は大会社だ。君一人居なくなっても大きな影響はない。」と強く背中を押されたのだ。そして、社長に擁立話を持ち掛け、私への説得を要請したのが、塩川先生だった。

 

春風駘蕩を思わせるその風貌に、独特の大阪弁でユーモア溢れる語り口。テレビ画像で見ると非常に温厚そうに見えるが、その裏に隠された短気で怒りっぽい実像を表すニックネームが“瞬間湯沸かし器”。

私も若手代議士の頃、「君は何を考えてんねん!」と、大きな声でよく叱られた。ただ、怒るのはその瞬間だけで次にお会いした時は、おとぼけなのかすっかり忘れている素振り。後に残らない「さわやかな」怒り方だ。故に与野党を問わず広く人望を集めることができたのではないだろうか。

 

40年以上にわたる政治生活のなか数々の要職を歴任されたが、誰もの記憶に残るのは平成13年(2001)からの財務大臣時代だろう。小泉総理のサプライズ人事で、79歳の長老財務大臣に就任され、第一次小泉内閣の看板大臣として構造改革の旗振り役を務められた。

一般会計が懸命の経費削減努力に取り組む最中、特別会計では従来どおりの放漫財政が続いていることを揶揄し、「母屋でお粥をすすっている時に、離れですき焼きを食べている」との表現は名言として語り継がれている。

 

平成15年(2003)、政界を引退されるにあたって、「人生(終了)のホイッスルが鳴るまで若干のロスタイムがあると思うので、大事に使いたい」と語られた。

その言葉どおり、引退後は東洋大学総長、関西棋院理事長を務められる傍ら、10年にわたり政界のご意見番として大所高所からのご提言をメディアに発信された。

 

今の政治の情況を見て、塩川先生ならどの様な発言をされるだろうか。

あのダミ声がもう聞けないと思うと寂しい気もするが、今はただ、大先輩のご冥福をお祈りしたい。