「前衆議院議長、町村信孝先生が急逝された」。
1日の夕刻、上京された生嶋高砂市議会議長と「地方創生に関する勉強会」についての打ち合わせの最中に、その訃報が届いた。
町村先生は、日比谷高校、東大を通じラガーマンとして鳴らし、ゴルフ、テニスとスポーツ万能と言われていた方だったのだが病魔には勝てなかった。衆議院議長を僅か4ヶ月の在任で無念の辞任を決断されたのが4月21日。それから僅か一ヶ月余り、健康回復にむけ頑張っておられると思っていたのだが・・・。残念でならない。
翌朝、ご自宅に伺いお顔を拝見させていただいたが、特にやつれた様子もなく、今にも目を覚まされるようなお姿。奥様の「渡海先生ですよ!」と耳元で何度も呼びかけられる声に、私は込み上げてくる思いを抑えることができなかった。
町村先生との出会いは、初当選した1986年(昭和61年)に遡る。清和政策研究会(通称:清和会、当時の福田派)の1期上の先輩で、兄貴分として公私にわたって随分お世話になり、可愛がっていただいた。
当時の清和会の1期先輩には、中川昭一(故人、元財務相)、尾身幸次(元財務相)、北川正恭(元三重県知事)さんなどがおられたが、その錚々たる先輩方の中でも町村先生は一際秀でた論客で、聴衆を魅了する演説に定評があり、「将来の日本国社長(総理総裁)候補」の一人と早くから目されていた。通産官僚の経験で培った実務能力を発揮され、文相、外相、初代文科相、官房長官などを歴任、党内随一の政策通として長らく国家運営の中枢を担われてきた。
5日午前に青山斎場で営まれた自民党・町村家の合同葬儀で、葬儀委員長を務めた安倍総理からは、「私にとって兄のような存在だった。常に国家の屋台骨を支えてきた偉大な政治家を、私たちはまた一人失った」と、気持ちのこもったお別れの言葉があった。志半ばで逝った先輩を思う無念さがひしひしと伝わってきた。
私自身も福田康夫内閣で文科相として初入閣した当時、官房長官の重責を担っておられた先生から、“大臣としての気構えや姿勢、組織運営の要諦”など、親身になってご指導いただいたこと。また、町村先生ご夫妻と私ども夫婦4人で北アフリカのモロッコ、チェ二ジアを旅行したことなど、走馬灯のごとく脳裏をよぎり、改めて胸の詰まる思いが込み上げてきた。
町村先生の持ち味は、豊富な知識と経験に裏付けされた論理的実践的な思考だった。そして、今国会の開会式では「内政、外交の各般にわたり、すみやかに適切かつ充実した審議を行い、国民生活の安定向上に万全を期す。」「諸外国との相互理解と協力を一層深め、世界の平和と繁栄に寄与していかなければならない。」と語られていた。
しかるに今国会、衆院・平和安全保障特別委員会の審議は、あいも変わらず神学論争に終始し、政府側の答弁も論理が一貫しない場面も見受けられる。4日に開催された衆院・憲法調査会では、時計を1年巻き戻すかのような参考人質疑もあった。
国運を左右する課題に対して、与野党が真正面から、“誠実”に“ベストを尽くし”丁寧な議論を繰り広げ、決めるべき時は決める政治を実現しなければならない。