9月11日に想う

この平成23年9月11日は、二つの面で大きな意味を持つ日だった。
一つは3月の東日本大震災から半年が経過した日として、もう一つはアメリカの同時多発テロ、アメリカ対イスラム過激派の開戦から10年経過した日だ。

東日本大震災からの半年の経緯については、週末にたくさんの特集番組が組まれていた。
報道だから、やや誇張されすぎという面も否めないが、「復旧復興が遅い」という感覚は、誰しもが抱いた感想ではないだろうか。
事実、阪神淡路大震災後の対応、私が政府与党の一員として携わった16年前の復興支援策と比較してみると、今回の政府の動きはずいぶんと遅い。

16年前は、4月(発災後3ヶ月)の段階で、復興のまちづくり計画が策定され、自治体の裁量で活用できる6千億円の復興基金が造成され、6月には仮設店舗がオープンし、仮設賃貸工場でも操業が始まっていた。
今、被災地で大きな課題になっているがれきの処分についても、2月には海上搬送による埋立処分が始まっていた(もっとも、完全な処理までには2年の月日を要した。)

この時間差の要因としては、被災面積の違い、原子力という特殊事象といったことが上げられるだろう。しかし、一方で阪神淡路の経験という参考書もあったのだ。

有事の際のリーダーシップは、トップダウンでなくてはならない。しかし、それは平時のボトムアップにより、リーダーに知識が蓄積されていてこそ発揮できるものだ。
前首相のリーダーシップ発揮手法は誤っていた(できなかった?)。“目立つ”ことのみを重視し、思いつきの発言を繰り返し、故に未だに復旧復興が停滞し、被災地からは政府不信の声が絶えない。

基本的に震災復興の手法は地元の自治体に任せ切るべきだ。中央政府の役割は財政支援と規制改革=裏方の支援に徹すればよい。3次補正予算編成のスタンスも、こうあって欲しいと思う。

一方、世界の関心は9.11事件を発端とするテロとの対立にある。
宗教観の違いによる文明の対立は、今に始まったことではない。
中世の十字軍遠征や第二次大戦のホロコースト、近年の隣国によるチベット迫害等々、歴史は多くの不幸を積み重ねてきた。

こういった対立を乗り越え世界平和を構築するためには、力による征服ではなく、相互の理解、互いの違いを認めあう社会の構築が必要だ。
塩野七生さんによると古代ローマの発展も、帝国の包容力=被征服国の自我、自治を認めたことによってもたらされたようだ。

ちょうど、同時多発テロが起こった頃(と記憶しているが)、「千と千尋の神隠し」という宮崎駿監督の映画が大ヒットし、ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した。
この作品が西洋人になぜ受けたか? それはきっと、八百万の神々が「油屋」(温泉旅館)で共に楽しむ姿が共感を呼んだのではないだろうか。
日本は多神教の国である。神道をベースにしつつも、仏教も、キリスト教もむしろ異なるものを取り込み、融合化してしまう不思議な包容力をもっている。この力を世界の平和構築のために発揮すべきだ。

発足早々から閣僚の失言が多発し、早くも組み替えが必要となった野田政権であるが、13日からの臨時国会で、そして、22日からの国連総会、11月のG20では、総理自らの言葉で、日本のあり方を堂々と語ってもらいたい。