【細川内閣の終焉】 平成6年春

一方予算委員会では、自民党が細川さんの佐川急便グループからの借入金処理問題を、前年に引き続き徹底的に追及し続けていた。

予算委員会の理事は井手さんだったが、統一会派の政調会長と兼務では忙しすぎるということで私にお鉢が廻ってきた。

与党選出の理事として最も重要な仕事は、細川総理の証人喚問を阻止すること。

しかしそれは、私に最も合わない仕事だった。

かねがね私は「政治家は疑惑が生じたら、自ら進んで堂々と国会で晴らせばよい。」と主張していたからだ。

何度も断ったが、どうしてもとのことで、最後には引き受けざるを得なくなる。

当時の自民党予算委員会理事は非常に手強かった。

特に野中広務さんと深谷隆さんは本当に喧嘩が上手だった。

二人はそれぞれ革新自治体だった蜷川京都府政、美濃部東京都政の府議、都議として、野党としての闘い方を熟知していたのだ。

自民党をはじめ野党の予算審議拒否により政権は立ち往生状態に陥り、4月8日に細川総理は辞意を表明、内閣は4月25日の閣議で総辞職することになった。

約45年ぶりの非自民政権として、国民の圧倒的な支持のもとにスタートした細川内閣だったが、約9ヶ月の短命内閣に終わってしまった。

当初の約束であった「(さきがけと日本新党を)統合して新党を作る」という話も一向に進展しないまま、日本新党は統一会派を離脱、新党構想はあえなく消滅する。

しかし、日本新党の中にも細川さんのやり方に不満を持つ議員がいた。

まず、小沢鋭仁、五十嵐文彦、中島章の3氏が日本新党を離党、院内会派「グループ青雲」を立ち上げた。

続いて、荒井聡、前原誠司、枝野幸男、高見裕一の4氏も日本新党を離党、「民主の風」を立ち上げた。

彼らは後にそろって新党さきがけに合流する。

離党の際、前原さんが「我々の志はいささかも変わっていない。細川さんが当初の改革の旗を降ろしてしまったのだ。」と言ったことが、今も鮮明に思い出される。