政治改革法案の国会審議と並行して平成6年度の予算編成が行われた。七党一会派による連立政権だから調整に時間がかかる。
それでも、たとえ大晦日までかかっても年内に編成すると細川総理が決断、藤井大蔵大臣に指示を出した。
ところが、「分かりました。」と快諾して大蔵省に帰った藤井大臣から、一向に連絡が入らない。
それどころか、武村官房長官が連絡を入れても連絡がつかない。
「どうなっているんだ。」と言っているところへ斉藤次郎事務次官がやってきて言うには、「年内編成は時間がないから物理的に無理です。大臣に代わって大蔵省の結論を報告に参りました。」と。
武村官房長官が「冗談じゃない。これは総理の指示だ。徹夜してでもやれ。」と返すと。
「我々としては、このスケジュールでは無理だと判断しています。やれるなら、皆さんでやって下さい。」と事務次官。
我々の政治主導は、大蔵官僚の抵抗の前に敢え無く崩れた。
その時私は「こいつだけは許せない。この顔は絶対に忘れない。」と思った…。
その後、斉藤事務次官は村山内閣時代に表面化した住専がらみの大蔵スキャンダルの責任を取って次官を辞任することになる。
今では信じられない話だが、当時の大蔵官僚は総理大臣の指示を跳ね返すくらい強かったのだ。ひょっとして、今でもそうなのかも知れないが…。
斉藤氏は今、亀井静香前郵政担当相の要請により、日本郵政の社長に就任している。
余談になるが、あれ以来、毎年正月になると今でも添え書き付の賀状が届く…。
いささか、不可解な気がしないでもない。
後から分かったことだが、当時の連立与党の実力者、小沢さんが予算原案よりも政治改革関連法案の成立を優先したという背景もあったのだ。