年が明けてから新党結成の準備も着々と進んでいた。
平行した若手議員の会も活発に活動していた。
そんなある時TVのニュース番組に出演した宮沢総理が、選挙制度改革は「必ずやります。私が嘘をつく顔に見えますか?」と発言した。我々は歓喜の声をあげた。
小選挙区比例代表並立制という選挙制度改革は、一度は総務会でも了承された。
ところが党内で反対論が再度展開され、通常国会での成立は見送る方向となり再度総務会が開かれることとなった。
我々は実力行使に出た。
総務会が開催され、会議室の前に人間のバリケードを作り総務を部屋に入れない作戦だ。
「総務は年寄りが多いから、もみ合っているうちに体力を消耗して引き上げるよ」と仲間の一人が言った。
ところがことはそう簡単には運ばない。
総務の先生方は一向に引き上げない。
それどころか、佐藤孝行総務会長を説得する役割だった仲間の一人は佐藤氏に「無礼者、それでも政治家か? 道を空けろ!」と言われて‥‥、「総務会長が通りです。道を空けて下さい」と腰砕けになる始末。
残念ながら我々のバリケードは敢え無く破られてしまった。
両議院総会の開催に必要な署名集めも‥‥、あらゆる手段(後で分かったことだが、不正な手も使ったらしい)を講じて過半数の署名も集めた。
宮沢邸まで押しかけて総理に決断を追ったことも‥‥、それでも活路は拓けない。
会期内の成立は絶望的になった。
そんな中ではあったが、新党結成の準備は様々な議論を続けていた。夏休みに合宿をし、基本理念や基本政策をとりまとめた上で9月に静かに旗上げをしようという計画だった。
平成5年(1993年)の通常国会は、会期末になって事態は急変した。
小沢氏のグループが野党の提出の内閣不信任案に賛成すると永田町に激震が走った。
政局は一気に解散総選挙へと急転した。
「計画を実行するべきか否か?」 我々は議論を重ねた。
誰にも迷いはなかったが、あまりにも急な事態の変化に準備が整ってなかった。
しかし自民党で選挙を戦って、済んだら新党を結成するというのでは有権者の理解は得られない。
「不信任可決と同時に離党をする」これが我々の結論だった。
残された3日間でできる限り準備をする‥‥、我々は毎日ホテルを変えて集まった。解散前日の深夜、目に一杯涙を浮かべ鈴木恒夫氏が部屋に入って来た。
「本当に申し訳ないけど一緒に行動できない」、鈴木氏が言った。
新自由クラブ以来の大恩人である河野洋平氏(当時官房長官)にだけは了承を取りにいったが、どうしても聞き入れてもらえないとのことだった。
「絶対に計画は漏れないから」と鈴木氏は言った。
私にもこの人だけには話しをしておかなければという先輩はいたが、「話すと相手に迷惑がかかる」との田中秀征氏の言葉で思い止った。