あれから10年

8月3日、内閣改造が行われ、第3次安倍第3次改造内閣が発足した。

今回の改造は、このところの内閣支持率の低下を回復する狙いも確かにあったとは思う。しかし、本筋は実務型の人選をすることで着実に実績をあげ、加計学園問題や森友学園問題、また国会審議における一部閣僚の不適切な答弁対応で失墜した信頼を回復するためと考えるべきだろう。

発足を受けての記者会見の冒頭で、安倍首相は国民から不信を招いたことを深く反省するとして陳謝するとともに、「原点にもう一度立ち返らなければならない」と述べ、経済再生をはじめ、政策課題で結果を出すことで信頼回復に努める考えを強調した。

そのうえで新しい内閣について「党内の幅広い人材を糾合し、仕事に専念できるしっかりと結果を出せる体制を整えることができた」と言及、新内閣を『仕事人内閣』と命名した。

一般的に閣僚の適齢期(入閣の有資格者基準)と言われているのは衆議院議員で当選5回以上、参議院議員で3回以上とされているが、自民党内の入閣待機組は60人を超える。

内閣改造が行われるということで、期待をしていた議員も数多くあっただろう。結果的に今回の改造で新入閣を果たしたのは6人だけと、これまでの組閣と比べて少人数となった。

適齢期が訪れると選挙区の支持者の間に入閣の期待が広がる。ましてや新聞等の事前予想で名前が取りざたされると、支持者の期待は一層大きくなり、議員にはそれが大きなプレッシャーとなる。

今の季節、日本全国で夏祭りが行われ盆踊りや花火大会が開催される。数多くの方々が参加される会場への挨拶廻りは毎年恒例の議員活動である。7月のG20のあと、8月上旬に内閣改造する旨の発表がなされてから組閣当日まで、適齢期の議員にとってはさぞかし悩ましい日々であったことだろう。

私の初入閣は、今から10年前の平成19年9月のことだった。第一次安倍内閣が総理の突然の辞任表明により、福田康夫内閣にバトンタッチした際のことだ。ほとんどの閣僚は一か月前に改造したばかりの安倍内閣からの留任となったが、数少ない2つの空席ポスト、防衛大臣と文部科学大臣に石破 茂氏と私が就任した。

当時私は政調会長代理に就任して一か月も経っていなかった。今は複数となっているが、当時は政調会長代理のポストは1人だけ。しかも大変人気のあった重要なポストで、私としても張りきっていただけに短期間で終わるのは非常に残念だった。

内閣改造の前には、まず党の三役(今は選挙対策委員長を含む四役)が決まる。

政調会長が石原伸晃氏から谷垣貞一氏に代わり、私のポストを空けて欲しいと谷垣会長から要請されたのだが、「私からは辞任はしないので、どうしてもと言うのなら首を切ったらいい」と、谷垣氏を困らせた記憶がある。

そんな時、当時の派閥(近未来政治研究会)の会長であった山崎 拓氏から、官邸から入閣の連絡があるので「受けて欲しい」と電話があった。

政調会長代理のポストに未練があったし、同じ派閥に私より当選回数の多いのに未入閣の同僚議員がいたこもあったので一度は辞退した。しかし、山崎会長から「渡海さん、こう言う話は一度断ると今度いつ来るか分からないので、話が来た時には素直に受けた方が良い」と、アドバイスを受けたことを今も鮮明に覚えている。あの時に固辞していたら、未だに待機組の一人としてこの夏を悩ましい思いで過ごしていたかもしれない。

10年前の夏は大臣就任直後から「沖縄集団自決の記述についての教科書検定問題」で忙殺され、お祝いを受けて喜んでいる間もなかった。それでも、就任後初めての“お国入り”の際、自宅前で200人以上もの地元後援会婦人部の皆さんの大きな拍手で迎えられた時、我がことの様に喜んでくれる姿を目の当りにしてお礼の挨拶で言葉に詰まった。この時は大臣になって良かったと心から実感したものだ。

今、安倍内閣は発足以来最大の正念場を迎えている。内政・外交・安全保障上の課題が山積するなか国民の信頼を取り戻し、政策を着実に実行しなければならない。

今回初入閣された方々に、まずはお祝いを申し上げるが、喜びに浸るのはほどほどに、常に緊張感を持って難局に対応し、政治の信頼回復を実現して欲しいと心から願っている。